母の入院

いつの頃かは覚えていない。母が盲腸を悪化させ腹膜炎で入院した。暗い裸電球の下で覚束なく氷枕を作っている私の姿があった。5円か10円を入れると15分-20分使えるガス器具と白い寝間着姿の母の姿がおぼろに浮かびあがる。真似をしてガスを点火したおぼろな記憶。ボンベコックを緩めガスを出しマッチで火をつける。火がついたときにボッと音がしておののいた。後年に続く火遊びの目覚めと言えなくもない。笑。神宮一の鳥居近くの小さな個人病院だった。(この記録を綴るにあたって地図を調べてみたが該当する病院はなかった。)多分、大部屋だったのだろう。癒着していて膿が溜まっていて、まかり間違えば大変なことになっていたと後に聞かされた。幼い私は、大部屋の母のベッドの近くをウロウロと所在なく動き回っていただけではなかったか。氷を割って水枕を作るように言われたのかどうか。透明な氷をガツガツと砕いて狭いゴム管の口に氷の欠片を押し込む私がおぼろ在る。本当に私が氷枕を作っていたのか、それとも母の傍らで眺めていただけなのか覚えていない。多分、傍で見ていただけなのだろう。狭く細長い石の台所があり天井に橙色の裸電球が揺れていた。小さな記憶。

近くに母の姉一家が住んでいた。妹である母の為にあれこれと手助けしてくれたのだろう。後年、私もその家に預けられるのだが、その叔母の印象は強烈だった。同じ環境に育った兄弟姉妹であっても気質気性が似ているとは限らない。この姉は母と似ていたし気性も合っていたと母は言う。実におっかない顔をしていた。女子師範を出た才媛ということだったが私は苦手だった。おっかない母が二人居るようなものだった。本当は妹思いのやさしい人だったのだろうけれど。ぶっきらぼうに話す人だった。笑うと目尻に皺がいっぱいできた。たしかに風貌は母によく似ていた。姉のご主人から母は親も及ばない励ましの手紙をたくさん貰うことになる。「なんて書いてある?」達筆な崩し書体の手紙をまっさきに読まされるのはいつも私だった。

母には男三人女四人の兄弟姉妹がいた。後に母を頼り温泉町に移住してきた一番下の妹だけが生存し他は既に他界している。嫡男はガンで早世し、次男は門川町の名士郵便局長様になり、三男はふるさとを離れ朝霞自衛隊に籍を置いていた。この叔父とはなんとなく気があい最後までつきあった。長女は良縁に恵まれガッコの校長先生様に嫁いだ。次女は南方(みなみかた)の農業に嫁いだ。底意地の悪い女だったらしく嫌っていた。後に述べる米騒動で仲違いし葬式にも出なかった。恨み骨髄という体験があったようだ。妹は近郊の農業に嫁いでいた。こうして眺めると、母ひとりだけがしなくていい苦労を一身に背負ったことになる。それもこれも馬鹿息子の私を宿したばかりに。太宰治の台詞ではないけれど「生まれてごめんね」である。笑。今、書き付けていて思った。妹、二番目の兄を除いてすべての親戚に私は預けられたことになる。高度成長期前の昭和20年から30年後半は、母と子が安穏に暮らしてゆくにはあまりに過酷で厳しい環境であった。私を背負い線路に飛び込もうと幾度も考えたと後に笑いながら語っていた。多分、本当のことだろうと私は思った。


追記
記憶のスケッチを並べてみた。予想外に多いのに驚いた。小学校5年生夏までの心象風景の広がりは予想を越えていた。

[2010年 10月 29日]


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