母を訪ねて三千里


農業を営む母の姉の家に預けられ一夏を過ごした。小学校1.2年の頃ではなかったか。夏休み期間だけ預かって欲しいと母が頼んだのだろう。宮崎市北部にある南方(みなみかた)に在る藁の匂いのする農家だった。同じ年頃の男女の姉弟がいた。従兄弟ということになる。夏祭りがあった。大きな蕗の葉っぱを丸く絞り小さな蝋燭を立て提灯を作った。太鼓と線香花火の色、噎せ返る草の匂いの記憶が微かにある。

トンボ舞う稲刈りの季節だった。その日は、宮崎市内の割烹旅館で働いていた母が私に会いに来る日だった。やがて黄昏時となり次第に暗くなってきた。土間先で立ちん坊して足先がすっかり冷えても、母は現れなかった。待ちくたびれた私は「来ないから会いに行く」そう親戚に告げたかどうかは覚えていない。

ズボンポッケに入れた五円玉の感触を確かめ、母の居る宮崎を目指し歩き始めた。「母恋し」、決心の強さが偲ばれる。たわわな稲穂が夕日の斜光を浴びて赤く染まっていた。夥しい小さな赤トンボが空を舞っていた。稲穂の道を分けるように真っすぐとぼとぼと歩いて行った。稲刈りする人のまなざしが向けられた。あの子供はいまごろ何処にいくのだろうと訝ったのではないか。母の居場所をどうして覚えていたのだろうか、宮崎神宮を過ぎればあとは市内へ一本道と、それだけは覚えていた。神宮に着く頃にはすっかり夜の帳が降りていた。見上げれば風に揺れる森。梢に茂る葉が左右に烈しく揺れこすれ、ざわざわと不気味な音を響てるのだった。神社境内は昼間ですら暗い、ましてや夜ともなれば。妖しく怖い夜の道だった。灯り点る駄菓子屋で五円玉を使ってパンか菓子を買い喰いをしたかもしれないが、よく覚えていない。駄菓子屋のおばちゃんの声を聞いて安心したのかも知れない。

大淀川手前から賑やかな飲屋街に入った。地図を調べたところ西広島通りとある。昔も今も賑やかな飲み屋が軒を並べている繁華街だ。幼少の頃、その付近に住んでいた記憶が確かにある。覚えていた旅館の名前を人に告げ路を教えて貰ったのではないか。ようやく母の働く割烹旅館に辿り着いた。八時を廻っていた。明るい玄関に立ち「お母さんはいる?」と尋ねた。応対した人はさぞかし驚いたことだろう。顔を真っ赤にして走り出てきた母に至ってはいうまでもない。割烹旅館のおかみさんが「まあまあ、よう来たなあ。たまげたわ。ボクまだご飯を食べてないんやろ」と言ってくれた。薄暗い畳の部屋でお膳を食べた記憶がある。傍らに付き添った母は泣き腫らしていたのではないか。まさか歩いて訪ねて来るとは思っていなかっただろう。それだけに胸に迫るものがあったのだろう。

その後のことはまったく覚えていない。母は姉の冷たい対応に立腹したのだろう。多分、即座に私を引き取って手元に置いたのではないか。以来、南方を一度も訪れたことはない。後年、母とその話をよくした。クオレ著「母を訪ねて三千里」という小説をもじって「母を訪ねて散々」と笑い合ったことだった。「母恋し」の一念で南方から宮崎まで凡そ6キロを歩き通した少年の、母恋しさゆえの冒険旅であった。冒険の成功に味を占めた少年の行動範囲は一気に広がった。私の放浪癖の原点と言えるかもしれない。


宮崎 南方

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付記
戦後十年を経ても、米を購うことができなかった貧しい時代のこと。母は米が置いてある納屋に入り一合二合の米をそっと紙袋に入れた。その姿を姉に見咎められ「泥棒〜」と面罵された。他人ならまだしも実の姉に「泥棒」と言われたことが深い傷となって刻印された。気性が合わないといって嫌っていた背景にはそういうことがあったらしい。神宮に住む長姉が逝去した折は、母の代理として葬儀に参列したが、南方の次姉の葬儀は香典のみで対応した。私のことも含めよほど腹に据えかねていたのだろう。当時の話になると「米の話」が必ず付随した。恨み骨髄だったようだ。今思えば、農家に取っての「米」は命を繋ぐ大事なものであった。黙って紙袋に入れた母がもちろん悪い。だが母の窮乏を知っていながら、見て見ぬふりの惻隠の情を示す度量のなかった叔母は「情けのない人」「やさしくない人」と私にはどうしても映ってしまうのは仕方のないことではないか。戦後の食料事情の悪い頃のこと、人の心にゆとりがなかった時代の悲しい記憶。

[2010年 11月 12日]


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