父の肖像


セピア色のモノクロ写真にセルロイド眼鏡を掛けた若い男性が写っている。私に似て、とても端正な顔立ちをしている。(錯覚かも)生前、一度も会うことのなかった父と呼ぶ人の二十歳頃の写真である。どのようなロマンスがあったか知るよしもない。母の青春時代がどのようなものであったのか、生前詳しく聞くことを敢えてしなかった。もっと聞いておいてもよかったかなと今は思う。母は24歳前後の若い頃、博多で西鉄電車の運転手をやっていた。終戦混乱の余塵がいたるところで燻っている時代のこと。男たちに代わって電車運転をときおり任されていたらしい。軌道上をトロトロ走る市中電車だから操作は極めて簡単だったのだろう。その運転ぶりがどのようなものだったか、おもしろおかしく語ってくれたことがあった。母にも笑い転げる青春時代があったことをなんとなくうれしく思うのだ。

父と呼ぶ人が何処で産まれたのか、家族構成は、どのような仕事をしていたのか、氏素性も定かには判らない。広島生まれであり被爆した後に博多に移住した。そこで母と知り合い、玉のようなおぼっちゃまのわたしをこしらえた事実だけがある。どういう暮らし風景が営まれていたのか知るよしもない。食糧事情がわるい時代だった。一人目は流産、二人目の私は未熟児(1700g)でこの世に生を受けた。生死の死線を幾度も彷徨い、この歳までしぶとく生き残った。不幸にして結核を発病した父は病棟隔離され、そのまま死んだと聞かされ育った。ちなみに父は母より五歳年下だった。二十歳の父ということになる。仕事も先行きも定まらない不安な暮らしをしていたのだろう。両親、兄弟、親戚一同の猛反対に会ったらしい。家長制度が厳然と残っていた時代のこと。因果を含められ泣く泣く母も諦めたのだろう。

一度でいいから「私」に逢いたいという手紙が母の元に届けられた。父として我が子を腕(かいな)に抱きたいという気持ちはもっともなことだ。そのことを私に告げた母の気持ちの底に「さびしい思い」をさせていることへの詫びがあったのだろうと思う。幼い頃から父は死んだと聞かされ育った。後年、他家の養子となり家族を持っていること、大阪堺市に住んでいることを母が調べあげた。認知していることから生じる後々の禍いを忌避した母は、私が父と会う事を望まなかった。遺言は「父を捜さないように」だった。探そうと思えば判ることだが、どうでもいいと思っていた。いまさら父と子の対面でもないだろう。そういう星の巡り合わせだったのだと、とっくに諦観していた。抱かれ遊んだ記憶のない父より目の前の母である。とはいえ父に抱かれた思い出の欠片もないことが、私の成長に及ぼした影響は少なからずあるように思う。「お父さんがいない家(うち)の子なんだって、、」と世間の目はさぞかし五月蝿かったはずだ。何、わたしに止まらず、当時はそういう子供が大勢居たのだ。若かった母は私を里子に出すなりして別の道を選ぶこともできた。だが母は断じてそうはしなかった。母は「父であり母」であった。父の思い出は一葉のモノクロ写真だけ。その写真も今は手元にない。生きているか死んでいるかも定かではない。それでいいのだと思う。


[2011年 12月 3日]


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