TOP > Country Walk> 加古川の街-2 

加古川の街 その2

加古川の街 二日目

2008.05.08(木)

高速バスは早朝の京都駅に着いた。まず京都駅の変貌に驚いた。まるで鉄の伽藍。メタリック色調に統一された駅のありようとセンスの良さに脱帽した。メ タルを幾重にも交差させ摩天楼を想わせる天井の高さと長大なエレベーターの組み合わせは歴史に彩られた古都のイメージを払拭するものだった。そ うなのだ、人も処も刻々と変化する。変化しないものなどひとつもないのだと哲学ぶってため息一つ。
「田舎モノ」の私は周章狼狽しながらあちこちカメラを向けてシャッターを切ったことだった。


電電に乗り換えて大阪・道頓堀を目指した。電車の色が違うだけなのだが(軌道の幅が微妙に違うのかも)関西圏に居るのだなあと納得してしまった。この地 ではエスカレーターは右側に並ぶ。今日の午後には入院する身。明日からは断糖生活に臨む身だから、せめて今日だけは粉文化の池に溺れ、死ぬほど「お好み焼き」を食べるのだと深く心に決めていた。せめてものかなしい足掻きであった。

道頓堀の賑わいも久しぶりのこと。往来する人々の表情も着ている服の色も、東京とは違うように感じた。よく言えば気取りがなく浮世の悩みを笑いで蹴飛し、ありのまま生きるエネルギーに満ち満ちている。そこへいくと東京新宿界隈は冷ややかな猥雑に満ち、道ゆく人の素性が皆目わからない不気味さを纏っている。できうれば大阪・難波で終の棲家を見つけたかった私。

道頓堀角座で「特大お好み焼き」「焼きソバ」を注文した。この店は「すべてやってくれる」箸をくわえて焼けるのも待つだけである。ビールで喉を潤し待つ。店内は人、人で溢れ活況を呈していた。食い道楽の町、大阪の食文化は「粉」である。その「粉」が私の病気を悪くするとは何と言う皮肉なことだろうか。お好み焼きにがっつき腹を満たした。道頓堀の人波にうずもれながら、懐かしい御堂筋を難波に向かって歩き始めた。入院道具を詰めた40Lザックを背負って歩 く姿は明らかに異様で道行く人の視線を集めたようだ。へんなおっさんがとぼとぼと歩いてる図。声をかけてくる若いねえちゃんなど無論いなかった。(その昔 であれば、、、)

東加古川駅前の道を10分ほどまっすぐに歩き、やがて広い国道に出た。右折しさらに10分歩いた。地図はネットでダウンしたおおまかなもの。どうやら通り 過ぎたらしくいっこうに目指す病院にたどり着けない。近在の人に場所を聞いたが要領を得ない。携帯で電話をしたところ、明らかに行きすぎだという。曵かれ 者の小唄よろしくザックを、よいしょと背負いなおした。1500漸く病院に到着した。ネットで見た病院とは随分印象が違った。画期的な治療をするすばらしい外観をイメージしていたのだが、築30年余の風雪、メンテナンスしていない色褪せた外壁にいささか驚いた。成人病、肥満治療と大書された看板のある正面 玄関から中に入ると閑散としていた。午後の診療が始まっていないのかもと思ったが、それにしては椅子の旧さと言い窓口といい、病院を往来する人の数とい い、明らかに静かすぎではないかと不審に思った。窓口で来訪を告げ案内を乞うた。さきほど電話で応対してくれた女性だった。
「お待ちしてました。遠いところごくろうさまです。」
入院受付表に保険証を添えて出した。「よろしくお願いします」と挨拶した。入院生活なんて数十年ぶりのことで不安が増幅してくる。はるばると深夜バスを走らせ、ようやくたどり着いた処。どういう治療を施されるのかと、、。

やがて先生が登場した。薄い髪は既に風前の灯火となっており痩身の身体がぬっと廊下に立っていた。挨拶した。「遠いところよう来なはったなあ」立ったまま、 二言三言の問診があった。持参した薬を取り出し説明を行おうとしたら即座に「いりまへんのや、ゴミ箱に棄てることや」と意外な言葉。「効きもしない薬ばかり飲まされて五年もよく苦労しなはったなあ。挙げ句の果てにインシュリンなんてひどい話や」面食らう言葉に接し戸惑う私に「今日はいつもの夕食、明日から はこちらで出す薬と医療用のプロテイン食で過ごして貰いますわ。それを朝昼晩眠る前に。一週間続けて貰いまっせ。糖にとことん侵された身体を脂肪代謝に切 り替える期間や。ま、言うてみれば体のいい絶食みたいなもんやけど、心配せんでもお腹はすきません。それで足りなければ冷蔵庫に作ってあるお茶を飲みなは れ。死にはしませんで〜 あさっての朝はインシュリンが出てるかどうかの検査と現在の状態を知る採血検査しますよって糖分のあるもんは摂らないようにして や。あっはっはと豪快に笑ったのだ。笑った顔がかわいい人だった。

朝は6時に起床、六時半朝食、七時半から八時半まで断糖講義となってま す。講義が終わったらベッドに寝てたらあきまへんで。両脚に1.5キロ、両腕に0,5キロの錘をつけて終日ウォーキングに出て貰います。それが基本の治療 や。弁当はオプティを出すから心配いらへん。市内であろうが市外であろうがおかまいなしや。地図は食堂に置いてありますさかい自由に使っくれていい。夕方 6時からが夕食やから、それまでどこへなりとご自由に、、あっけにとられた最初の会話であった。血圧ひとつ計ろうとしなかったものの医師はしっかり私の 顔、爪の色、声の響き、眼の色輝きまでもしっかりと触診ならぬ視診されていたことを後に知る。「観る視る診る」は医療の根本。舐めるように仔細に観察され ていたのだなと後で知る。今思っても油断も隙もないおっさんやった。齢70歳、矍鑠(かくしゃく)として野武士の威風が漂っていた。京都大学で医学を学び 米国で糖代謝の研究を行った後に加古川で開院したという経歴の持ち主。成人病並びに肥満を対象としているが開院当初は総合病院の看板を掲げていた。

部 屋に案内された。一室一人のスペースを割り当てられた。窓際のベッドと決めザックを紐解いた。現在、入院患者は6名ほど。みな同病の人達であった。たちま ち意気投合した。患者諸氏からさまざまな情報を仕入れる。入れ替わり立ち代わり全国各地から参加してくるとのこと。肥満、糖尿病最後のお助け寺との異名を 持っている病院とのこと。ひとり巨体の米国人が通訳付きで入院していた。今日から入院することになりましたと挨拶を行った。家、会社への連絡を行い、そう こうするうちに夕食となった。私の入院生活が実質の幕をあけた。その食事風景とは、、次回に続く。



inserted by FC2 system