山ダイアリー
2002年09月 

2002年9月30日 秋雨の午後
終幕。有志から花束と記念品。楽しい送別ランチ。王子の今ちゃんから花束に添えてメッセージ届く。源さんからメールが自宅PCに。退職記念の餞別で「日本百名山」新装版@2900円と「江戸百名山図譜」@2800円二冊を求めた。帰りに靴を磨くクリームをスーパーで求めた。笑。花を花瓶(ネスカフェのボトルなのだが)に活け、豪勢に「ピザとビール」で乾杯「お疲れさま」。明日からは身体を絞るぞ〜。ぎょっ、台風が来ているのか〜。殺生や。
藍色の万年筆で書かれた社長直筆サインのメッセージが退職関連書類に同封されていた。

「拝啓、この度、貴職におかれましては、平成14年度上期希望退職に応募され、平成14年9月末日をもって退職されるの報に接しました。
先ず何よりも始めに、貴職のこれまでの長年にわたる当社に対する多大な貢献に、深甚なる感謝の意を表したいと思います。併せて、今後の御活躍を心よりお祈り致します。今回の希望退職の御選択は、当社の置かれた状況を理解されつつも、再就職を含めた御自身の将来設計、御家族の今後の事等、熟慮に熟慮を重ねられたうえでの苦渋の決断であったろうと推察致します。当然の事ながら、複雑な思いが錯綜し、簡単には言い表せない事情、お気持ちがあったことでしょう。当社で働く事を希望して入社され、長年にわたり社業に貢献されてきた貴職が、会社から提案した制度とは申せ、このような選択をなさったということについて、社長としてまさに断腸の思いであります云々、、。」

三国志「魏」の曹操猛徳が中国全土に広がる「黄巾の乱」を平定すべく私財を投げ打ち私兵を募った時に発した言葉を思い出す。
「我が戦いは、至弱より始めて至強に至る」。やっぱりこれしかないわ。


2002年9月29日 16942歩
1530〜1730までジョギングした。自堕落な昨日の自分をリセットしなくちゃと頑張った。明日も頑張らなくちゃいけませんね〜。「四国八十八ケ所巡り」「中山道」の本を書店で拾い読み。50日:一日10000円の予算とある。う〜む。
久しぶりに走ったせいで足が痺れている。まるで丸太ん棒のようだ。この感覚が気持ちいいということもある。4日ぶりに血液が身体の隅々まで行き渡って気分爽快。9月はいつになくジョギングに精進したものの、平常心を維持する為に、弱い自分を叱咤する為に、走ったようなものだ。幾日も熟睡できない日々が続いたけど分水嶺を越える明日を境に変わるだろう。いよいよ明日で会社生活に終止符を打つ。新しい二幕への準備に全力で取り組むことができる。


2002年9月28日 自堕落な一日
一日寝て過ごした。夕方ようやく床を離れて近くのラーメン屋まで歩く。昭和二十九年当時のラーメンの味と評判の店だ。朝食納豆卵セット@290円は確かに安い。店内は人で溢れていた。たんめんと醤油ラーメン、餃子の夕食を取った。お腹が一杯になったので散歩しながら帰ろうということになった。土曜日の夜というのにデニーズ店内は人影まばらであった。不景気はここにも及んでいる。中古CD屋で久しぶりにCDを物色する。当然のことだが、二人とも最近の音楽シーンに疎くなっている。お目当てのサザンはなかったが原 由子「東京タムレ」を@1750円でゲットした。
「東京タムレ」を聴きながら、実家から貰った栗を大きな鍋で茹でた。山盛りでとても食べ切れない。木蓮は冷凍しておけば冬まで持つと縄文人みたいなことを言う。「なるほど」と感心した。
「星と嵐」参加のメンバーがバックパッキングの旅に出ている。心を解放する旅に出ている。さまざまな葛藤を乗り越えて、まずは一歩を踏み出した勇気に拍手を送りたい。しばらく歩くことができなかったが明日から歩くことにしよう。


2002年9月27日 粛々と
お世話になった人達へのメール配信作業は1230までかかった。送別会出席のメンバーへ「北アルプスの風」を贈呈する為に大量のプリントをした。その他の事務職にはメールだけ。内輪のスタッフにはアドレス、住所とお礼の言葉を認めて送信した。何本かの電話の往来を終え、元ちゃんと昼食(肉豆腐定食と生卵)に出た。2時間ほど西武でパートで書店を覗いて過ごした。1600会議冒頭で「退職挨拶」をそれぞれの言葉で行い、直ちに退席した。皆、粛々と第一幕を終えた安堵で「吹っ切れたいい顔」をしていた。30日朝の挨拶で全て幕を閉じる。(なあにホンの30秒ほどのことだ)。駅までの道を一緒に歩いた。「さよなら、お世話になりました 、お元気で」の挨拶をして雑踏に消えた。仙台に帰るAさん、心ならずもキャリア室に入るA氏とは共に山に登る約束をした。
1615、修理に出してある車の回収の為に「蕨」に向かった。サンルーフのモーターが故障して開閉できなくなっていた。東京駅から京浜東北線に乗り換え蕨駅に降りた。送迎の車がハザードランプを点滅させて待機していた。諸手続きを終えて外環から首都高速で帰路についた。請求額は@48000円であった。工賃無料ではあるけれど随分高いモーター代だなあ。ホントに車は金食い虫や。伊刈付近を通過する際、3月末まで暮らした町の佇まいを一瞥することができた。走り慣れたジョギングコースの「安楽亭」の看板とネオンが視界に入ってきた。あの角を曲がれば橋の欄干に続く坂道があり、そこで屈伸体操をやったものだ。真冬の2月、橋の欄干から見上げた寒々とした月!あれから1年が経とうとしている。
ここ数日、ジョギングに行けないでいる(雨のせいもむろんある)9月一ケ月をかけて早朝に起床するリズムを作ることができた。「毎日が日曜日」への布石はちゃんと打ってあるから心配はいらない。


2002年9月26日 終幕の作法
27日会議の冒頭で挨拶をする。そのまま退席し会議には参加しない慣例になっている。30日、いよいよ千秋楽。支社にて「お世話になりました挨拶」をして幕引き。その後、有志の職員たちが集まって私の為に「ランチ送別会」をしてくれる段取りになっている。お礼に「北アルプスの風」の小冊子を贈らせて貰おうと思う。(必要部数をプリントしておかなくてはいけないなあ。)会社専用アドレスは30日午後3時には自動的に消滅するとのこと。明日は「最後の挨拶メール」を各部門に流す作業で終わりそう。時間があまったらぼちぼち「甲斐駒ヶ岳」の原稿に着手してみようと思っている。
事務手続き最終確認。娘を健康保険に入れる手続きで「念書」の提出を求められる。同居していれば、そのまますんなりなのだが異動させているだけに「扶養者」と見なせないのだという。審査の厳しさには恐れ入るほかない。1ケ月半ぶりに内科往来。血液採取、問診、異常なし。投薬30日分を貰って健康保険証を返還した。明日から雨模様というので机の中を整理し「必要なモノ」だけを選び出して持参した。再就職支援会社から来月8日にオリエンテーションを開催するので参加いただきたいとの連絡が携帯に入る。そんなに早く就職活動をする気持ちはないのだが、「好球必打」というスタンスだから無碍にも断れない。離職票1日には出るとのこと。ただちに職安に赴き手続きを取らねばならない。待機期間なしで支給を受けることができる由だ。(当然だろう)それでも3回ほどは出向かなくてはならない由。それ以降は月一回出向くのが支給の要件になっている。10日〜14日「北アルプス」を予定。10月15日前後に新宿で「酒宴」の誘い。併行しながら「住まい」についての対応もしなくてならない。なんだかんだと10月は多忙を極めそうだ。
最後の給与明細を木蓮に渡した。今日はジョギングに出る気分にはならなかったけど、まあこういう日もあるだろうさ。


2002年9月25日 初霜の便り
共に仕事をしたスタッフと酒宴。餞別までいただいた。2300社宅の同僚と帰宅する。38才の彼も、チャンスがあれば会社に未練はないと言う。いかんせん、まだ子供が小さすぎる。リタイヤするにせよ、置かれている環境がモノを言う。来年3月末は年令を繰り下げて35才以上とする由。なりふりかまわず人員整理に狂奔せざるを得ない厳しい環境にあるのだ。それぞれの年代に応じた迷いが生まれる。30才以下の若い総合職の退社が目立つようだ。リストラは両刃の剣でもある。有為の人材が流出していく。東大、一橋の学歴も意味をなさない。会社業績、凋落の一途なり。「2チャンネル」には明らかに内部の人間でなければ知り得ない事が書き込まれている。匿名という卑怯な手段で「落書き」をし鬱憤を晴らす族こそ辞表を出すべきだ。
娘からおしゃれな誕生カード届いた。メッセージは「これまで御苦労さん、これからも頑張れ」というものであった。う〜む。カードのお礼に餞別に貰った「ギフト券」を送ることにしよう。セーターの一着くらいは購えるだろう。ショッピングも気分転換には有益だ。


2002年9月24日 秋日和
テントと道具のメンテナンスを行う。10月10日前後に紅葉を愛でる為に再び山に向かうかも。先々の予定がどうなるのか、しっかり把握しておかなくてはならない。転居するのは早ければ11月終わり。遅くとも11月中旬頃になるだろう。綿密な計画が必要だ。明日から仕事だが、ほとんどが残務処理のはずだ。集中力はもうないなあ。とはいえ明日は送別会の企画があるのだった。ジョギングできないのが残念だ。


2002年9月23日 秋分の日
今朝からいつものリズムでジョギングに出る。まだ脚は痛みを覚えていない。お土産を持って高根まで歩く。45分ほど散歩しながら歩いた。歩くことはちっとも苦でなくなった。むしろ自動車が煩わしく感じる今日この頃。交通至便、徒歩で充分ではないかと思える。惣菜を高根で買い込んで、流石に帰路は電車を使う。


2002年9月22日 下山
天候悪化の兆候だったので早々に下山。朝露に濡れたテントを畳み、0735分のバスで広河原に向かった。広河原からは乗り合いタクシー(@2000円)で甲府に向かった。「信玄餅」と「ほうとう」をお土産に帰宅した。ちなみに今日から51才になった。


2002年9月21日 摩利支天
延々5時間半、高度を稼いで甲斐駒ヶ岳、標高2967m頂上に立つ。千丈ガ岳と高度を競いながら一歩一歩。最後は、山登りというより岩登りの様相であった。富士山、八ヶ岳、中央アルプス、鳳凰三山、地蔵岳のオリベスク塔まで一望できた。ようやく南アルプスに一歩を印した。忘れ物の北岳は木蓮と一緒に来なくては意味がないだろう。50才最後の山は「甲斐駒」で終わった。


2002年9月20日 南アルプスへ
ベースキャンプを北沢峠に張る。閑散としたキャンプ場。目指す甲斐駒ヶ岳の白亜の花崗岩の頂上が少し見えた。おでこに出来た「瘤」のように見えた。


2002年9月19日 御徒町界隈
再就職登録センターに赴いた。担当者からヒアリングを受ける。職務経歴書の書き方からPCによる情報探索の流れを教えて貰った。再就職活動はいつからにしますかとの問いに「来年4月以降」と答えたら怪訝な表情をされてしまった。好球必打というスタンスは大事だが、なにより生命の洗濯の期間が欲しいではないか。背広を着込んだ「おじさんたち」が就職情報の探索に訪れていた。なんだかそこだけ色が樟んで見えた。うらぶれるのは構わないが「至弱から至強を目指す」覇気が感じられないのはいただけない。情報を選ぶ作業なのに背広姿はないだろうぜ。いきなり面接というのもないのだからリラックスしてもいいようなものだ。Gパン姿で現れて欲しいものだ。背広を着込まないと落ち着かないとでも言うのだろうか。哀しい習性というべきだ。再就職活動は来年4月以降とするスタンスに変わりはないけれど(好球が来たら打つ!)いたずらに右顧左眄するのは嫌だ。あくまで「至弱から至強を目指す」というスタンスで行くぞ。プライド、見栄、世間体という「どうでもいい」ものを捨て去らねば活路は見えて来ないはずだ。時代は中高年にも若い人にも厳しいようだ。風が吹いて来るのを待っていても仕方がないだろう。


2002年9月18日 残務処理
残務処理の仕上げに入る。20日から休暇を取るので集中力を発揮した。最後の朝礼当番だったが、皆の期待を裏切って「スポーツの秋」をテーマに話をしたことだ。笑。


2002年9月17日 山支度
一旦「北アルプス」と決めていたのだが、昨日の夜からさまざまなイメージが涌水のように溢れて、ついに眠れなくなってしまった。何処に行くか様々に検討を重ねた結果、秋の山行第一弾は、忘れ物をしてきた「北岳」に決定した。むろん縦走計画となる。間岳、農鳥岳と前回果たせなかった課題に再挑戦だ。そういえば表銀座もリベンジだったなあ。コンセプトは「リベンジの旅」とした。ようやく登るべき山が決まったので安心して眠ることができた
午前中、イトーヨーカドーにて食糧買い出し、午後から山支度を始めた。ひとつひとつの部品を畳に並べる作業を丹念に行った。秋支度だからシュラフは欠かせない。衣類も冬山に準じて構成。乾燥重量15キロ、これに水1L他を加えても18キロ以内に収まるだろう。さっそく今夜から地図の読み込み作業に入る。そういえば明日は山岳会の例会下見の日になっていた。船橋市民会館1945集合、大いに啓発を受けて来よう。

忘れ物をしないように、現時点でのチェック項目マ飴、モンカフェ、中華スープ、デジタル電池、テレフォンカード、目薬、薬、zippo(満タン)、携帯、時計、カード等。時刻表は携帯に発信済。甲府駅で和幸「とんかつ弁当」を忘れないこと。初日の縁起物だから。小さなワインもあるといいかも。

拉致された人々の運命の悲惨さ、残された家族の胸中を思い胸塞がる思いをした。言葉もない。不幸な歴史の元凶は「戦争」にある。与謝野晶子「君死にたもうことなかれ」を思い出した。それは次のような詩文だった。

ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり
君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん
ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)り
安しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)はまさりぬる
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)を
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ


2002年9月16日 秋霖
明け方、雨の降らぬ間にジョギングしてきた。津田沼に車を走らせ「ザックカバー65L用」を調達してきた。@980円だった。店内、秋山に向かう客で混雑していた。皆、次の連休狙いの人達だ。秋山本番!というところ。午後からずっと雨。北海道を除いて、みんな雨模様。山の支度にかかろうと思うのだが、いまいち気分が乗らない。なんとなく気持ちが沈んでいるのは雨のせいだろうなあ。こういう時は「暖かい布団と文庫本」の世界が一番だ。山で言うなら「停滞」ということになる。外は雨、狭いテントで寝転がり、ひねもす一日本を読むのも悪くないもの。

●新聞記事より抜粋:平均67才日本の「中高年登山隊」チベットの未踏峰登頂
北京15日発:中高齢者の登山家で組織する「中高年未踏峰登山隊」がさる10日、中国チベット自治区ラサの北西約100キロメートルにある「ニンチンタングラ山脈のロンズラ峰(推定標高5950m)」の初登頂に成功した。メンバー10人、57才〜73才で平均年令67才という。
やるもんだ!拍手喝采もんだね。「未踏峰」にこだわるスタンスが素晴らしい。1996年から8回遠征し7回成功しているとのこと。さぞかしポジティブな爺様婆様たちなのだろう。恐れ入りました!揶揄する訳ではないけれど、きっとお金に困らない人たちばっかりなんだろうなあ。笑。


2002年9月15日 錦繍の北アルプスへ
20日〜24日、会社生活最後の休暇を使って「北アルプス」に向かうことにした。既に全山紅葉の色に染まり始めていることだろう。涸沢の錦繍も捨て難い。槍も「登って来い」と囁いている。応えなくてはならないだろう。新穂高温泉から双六岳〜槍を目指すか、上高地から槍を目指すか。さてさて悩みどころ。


2002年9月14日 禁断の肉
0700起床。昨日に続いて朝練(ジョギング)に出た。新聞の広告束の厚さに驚きつつも、衣食住に関わる情報を眺める愉しみ、確かにある。本体の新聞束より厚さがあるという点が凄い。電気製品これでもか、車情報これもでもか、と満載である。もうモノは要らないな。整理整頓は川口を出る時に徹底的にやった。本当に必要なモノはそうはないはずだ。圧倒的量の「住宅関連」情報を木蓮が熱心に見ている。終の住処を得たことの意味は大きい。10月に入れば大掛かりなリニューアル作業が待っている。木蓮の関心事は「サイクロン式掃除機」にあるようだ。タクアン石のような宝石を求められても困るが、まあ掃除機のひとつやふたつでガタガタ言う私ではない。ところで、その掃除機の値段だが「4万〜5万」する由だ。う〜む、カタカタ。
朝食の後、自堕落に寝てしまった。布団の暖かさが心地よく11時頃まで熟睡してしまった。これでは何の為の運動か判らないなあ。 夕食は「しゃぶしゃぶ」にしようと言うことになり、高根の両親を誘った。しゃぶしゃぶ用の肉600gを特別にスーパーで購った。店頭に並んでいる100g@1100円の高価な肉ではなかったものの立派に「霜降り」であった。ネギ、豆腐、茸等の野菜とデザートの「巨峰」を抱えて帰宅した。久しぶりに「禁断の肉」を食べた。お腹がびっくりしているに違いない。明日も早朝から起きて運動に励むことにしよう。それにしても肌寒い一日だった。ジョギングパンツも長袖を出さなくてはいけないようだ。


2002年9月13日 早朝ランニング
0530目が覚めた。雲低く垂れ込めているものの雨は降っていない。「しめた!」天気予報では雨だった。素早く身支度を整えて公園に向かった。「毎日が日曜日」になれば「朝の散歩」は欠かせない。その予備訓練みたいなもの。大勢の人が平日にも関わらず公園に集まっていた。0630ラジオ体操は夏休みだけの事ではなかったようだ。足早に歩く人、出社前にジョギングで汗を流す若い人もいた。卒中の後遺症を身体に抱えながら懸命にリハビリに励む人、犬と一緒に散歩する人、公園はいろんな人達が来る。一周ストレッチ歩行、それから半周をジョギングし、歩くというスタイルで1時間、軽く汗を流した。

木蓮は昨日から体調を壊して寝ているので「朝食」は会社の近く「マクドナルド」@360円セットで済ませている。いつもより早い時刻に出社する。都内へ向かう人で電車、寿司詰め状態。(ひぇ〜かんべんしてくれ!)津田沼から一駅辛抱すればいいのだが、都内まであの状態というのは相当なストレスになる。混雑を極める電車の中で聞いた阿呆らしい会話「ねえ〜パパ、今夜も遅くなるの〜」「そうだなあ、ちょっとわからない」「私さびしい〜」若い男女がしっかり向き合って、互いの目を見つめながらの会話だったので失笑してしまった。「何がパパじゃ!朝から寝ぼけてんじゃねえちゅうの!」男は30才、女は22才くらいか。「親の顔が見てみたい。」あは。

●損害保険と生命保険口座引き落とし書類を厚生Gに提出。健康保険証は30日に行う。事務方すべて終了。
●秋葉原の雇用安定センター登録面談日時:19日午後3時に設定。担当から今後の事についてガイダンスを受けるだけ。仕事の経歴書を登録することが狙い。いわば自己PRの技術についてオリエンテーションを受ける訳だ。その他、就職情報センター「HR総研」にも出かけなくてはならない。(いずれにしても、この二つの仕掛けは明年4月以降の活動になる)後顧の憂いを断ち、安心して「極楽蜻蛉的生活」を送る為に、会社に籍を置いている内に、二重三重に安全策を講じておくことが大事だろう。「HR総研」は再就職活動をメインにする、民間版「職業安定所」になっている。首都圏でなくては成り立たない仕事だ。再就職に関わる資金は全て「会社負担」になっているから活用しなくては損。決まるまで面倒を見る事になっている。決まれば「お金」になる仕組みだ。現代版「女衒師」というべきだろう。インターネット環境、再就職活動に関わる全てのメンテナンスを行う。M氏の話では「あたかもそこが自分の職場であるかのように振舞っていい、パソコンも使い放題だし、最就職の為の技術は全て揃っている」と。ちなみにM氏は一週間に一度通っているとのことだ。それにしても75枚の履歴書を出して5社面接というのも凄いなあ。まさしく「狭き門」というべきだろう。



2002年9月12日 これからの日程とやる事リスト。
14日以降は三連休が2回続くので集中力が削がれると思い、すべての書類を明日までに書き上げる事を念頭に「根性」出してパソコンに向かった。明日中には全ての書類を提出して「極楽とんぼ」気分で遊びに出かけるココロだ。
●13日、健康保険料と生命保険の口座引き落としの書類(郵便局)を提出する事。損害保険、健康保険料、その他も10/1に送金する事。
●14日〜17日:休暇:未定(親戚への挨拶廻り)
●18日:執務引き継ぎ書類作成、歯科往来。
●19日、午後、秋葉原の就職登録センターに「職務経歴書」を提出する為に出向く事。秋葉原まで行くのがめんどうだ〜。
●20日〜24日:休暇:山に向かう。
●25日内輪の送別会に出席する事。わいわいがやがや。
●26日、お世話になった人々にメールを送信する事。最終業務引き継ぎ日。内科往来。
●27日車で出社し、机、ロッカーの私物を搬出、処分する事。最終会議に出席。小送別会。
●28日〜29日休日:未定
●30日朝礼挨拶後、PC、健康保険証、身分証明書、社員カード、バッジ、カード、マスターキー等返却の後、退社する。


2002年9月11日 波紋
午後4時から会議。「会社は非常事態の最中にある、もっと緊張感を持って仕事をしなくては」と檄を飛ばす上司。志気低下著しい状況で、それを言うのは酷というものだ。昨日の発表から一日を経て、いろんな人からアクセスがある。胸塞ぐ思いで語る人、俺も、私も3月末で辞めると言下に言う人、ひとそれぞれの決断の時期が迫っている。昨夜の寝不足からか身体がだるかった。早々に帰宅。こういう時は眠るにかぎる。長女より「住民票」木蓮の「非課税証明書」が川口市役所より届く。これで明日書類を提出できる。ひとつ、ひとつ片付けていけばいいさ。


2002年9月10日 新宿にて
浦和時代の仲間が全員集合し送別会を開いてくれた。あちこちから電話があり「送別会」をやるから出て来いと言う。ありがたいことでないか。 本日「希望退職者」の発表が全国一斉に正式に行われた。総勢400名近くが希望退職にエントリーしてきた。肩を執拗に叩かれて、尚エントリーしなかった者は、19日人事発表で否応なしに「異動」を申し渡され、来年3月末まで「飼い殺し」になる。一歩の距離を踏み出した者と踏み出さなかった者の差は歴然だろう。明くる20日、支社送別会が予定されているらしい。私は20日から24日まで休暇には入るから出席不可能。もっとも異動して半年で「送別会」もないだろう。それだけの人間関係を深める時間はなかったから、少しの痛痒も感じない。ただ同室のスタッフ達とは、ささやかな送別会をすることになる。それで充分だ。

浦和で、3月末で希望退職に応じたM氏は5キロほど太って登場した。生活のリズムを訪ねると、0800起床、食事の後はインターネット検索で「仕事探し」をしているということだ。4月以降、75社に履歴書を出して5社面接をしたとのことだ。自らを称して「IT浪人」というところがM氏らしい伸びやかさだ。システムにどっぷり浸っていたせいでPC以外に技術がない。47才を過ぎてシステム関係の職種に就くのは難しいことだろう。時代の風がこちら側に吹いてくるまで待つという姿勢も大事な事だ。右顧左眄して判断を過ってはならない。それにしてもなかなか風向きが変化しないなあ

娘より「非課税証明書」届く。倅より銀行口座の知らせが入る。退職日に送金して心の負担を軽くしておくことにしよう。


2002年9月9日 健康保険証
任意継続保険加入資格の書類をいろいろと出さなくてはならない。手続きの中で、これが一番煩雑だ。非課税証明書、住民票、同居、別居、扶養者であることの証明等、それなりの整合性を求められる。組合健康保険はどこも赤字なので「資格審査」が厳しいらしい。損害保険は更新したばかりなので年払いへ変更。社宅継続使用申請書(来年3月末までに退去すればいい)、再就職活動のオリエンテーション参加書類作成、生命保険も払い方変更。退職に伴う諸手続きを急がなくてはならない。ああ忙しいこっちゃで。明日は新宿で仲間が揃って送別会をやってくれるという。明日は走れないので、雨そぼ降る中、無理をして走ってきた。帰るなりお風呂にドボン。出社するのも余すところ11日となった。そういえば定期が18日で切れる。立つ鳥、後を濁さずの美学と言う訳だ。淡々と仕事をするばかりだ。今週で雑務を仕上げる。

山岳会より例会出席の要請書届く。10月以降の準備も始まった。さっそく18日参加してみよう。目指すは「オールラウンド」な山登りだ。山の愉しみを味わい尽くすには「冬山」は避けて通れない。基本的レベルの「岩」も「沢」も範疇に入ることだろう。ザイルひとつ使いこなせないで「山屋」を標榜するのはおこがましい。「安全はすべてに優先する」安全の技術を身につけるのが山岳会参加の第一の主旨。人を求めて人間関係の幅を広げる狙いもある。諦めるのではなく挑戦することだ。


2002年9月8日 惰眠
「食ちゃ寝」自堕落の午前中を過ごしてしまった。「親父面して語るのは止めにしな!」と長男に説教される夢を見た。「いやご尤も」と一言半句返す言葉なく頷く私であった。一体何を勘違いをしているのだろうね〜。苦笑。

午後から図書館に向かう。尾崎喜八詩集二巻を借り出す。東海道自然歩道の事をWEBで調べる。山岳会を3つ選び出しメールを送信する。取りあえず例会に参加して雰囲気を確認しなくてはなるまい。歩く会への参加も検討したが、どうも爺様婆様の集いのような感じがするなあ。集団で歩くという図式がいただけない。「東海道自然歩道」「中山道」「東海道」「陸奥」を歩くテーマに沿った会があればいいのだが、そのような歩きを指向する人は「歩く会」にはいないようだ。15年後、単独で歩く事ができなくなったら参加してみよう。笑。9月中には計画の概要を立てておかなくてはならない。ポジティブに思考しアクティブに実践することだ。まず1週間ほどバックパッキングの旅に出て、予行練習をしてみることから始めるのが良いと留さんのアドバイス。山と違って食糧を持参しなくていいのが助かる。「walking」の課題として実行する時が来たようだ。午後4時からジョギングに出て汗を流した。ゆっくり浴槽に身体を浮かべ、お風呂上がりに飲む牛乳を味わって飲んだ。

1年4ケ月の雌伏を経て貴乃花が土俵に上がってきた。強い精神力を持つ力士と感じた。まず1勝!おめでとう。


2002年9月7日 本と音楽と
朝、夕方それぞれ1時間ほどジョギングして18000歩。幸いな事に雨に降られることはなかった。定量化された運動量という条件下でだが、季節の変わり目を汗の量で感じる。真夏のようにビショビショに濡れることはなくなった。退職して「毎日が日曜日」になったら運動量を確保するのが一苦労だ。リズムある生活を送らなくてはならない。心して対処しましょう。

来週末は近郊の山(奥多摩)に向かってみよう。小屋泊にするかテントにするか、天気予報と相談だ。まだ紅葉には早いだろうが初秋の草花の佇まいに触れてみるのもいい。20日〜24日は連休を取ったのでテント担いで山に向かいたい。会社生活最後の山を何処にするか、明日ゆっくりと考えてみよう。

秋の夜長、食事の後は美味しい珈琲と音楽と読書で過ごした。


2002年9月6日 「北の国から・2002遺言」
娘の生まれた翌年、1981年から始まった「北の家族」の物語。その最終話が今日、明日放映される。私は観ない。いつか私も遺言を書く時が来るだろう。今の時点で「遺言」を書くとすれば、その内容はどういうものになるだろうか。いずれにしても「偽善は免れない」。一番良いのは「遺言を残さないこと」だろう。木蓮には「感謝の言葉」と「ボロ庵」「老後を生活するに足るいくばくかのお金」ぐらいか。(遺族年金は計算に入っていない/笑)70才までは生きる約束をしたから、それまでは頑張って生きてみよう。病を基にして「合併症併発」失明、人工透析、脚切断の事態を迎えたくない為の「生涯にわたる運動療法」の日々なのだ。木蓮はともかく、子供たちに世話をかけるのは本意ではない。不肖の親爺なりに矜持を持ってくたばるさ。

雨の金曜日、ようやく一週間が終わった。実に長かった。心が仕事に向いていない証といえるだろう。急速に仕事が遠のきつつある。またそうでなくてはいけない。上司のM氏より電話を貰う。「残念だ!」同期10人が「希望退職」に手を挙げたと寂し気に語っていた。そのM氏といえど明日という日は定かには見えていない。一緒の釜の飯を食べた人間たちが、次々と職場を去って行く姿を見るのは辛い、「出るも地獄、残るも地獄」とM氏は言った。私が慰める場面になった。なんだかおかしな気分だった。博覧強記で生意気な後輩は「人間万事塞翁が馬」などとしゃれた事を書いてきた。いつまでも尻の青ところは直らないなあと笑ったことだ。いつまでも尻の青いのは私なのだろう。



2002年9月5日 退職事務手続き
退職に関わる事務処理を一挙に片付ける。後は健康保険証の継続手続きを残すのみ。扶養者の無収入を証明する非課税証明を川口市役所に手配しなくてはならない。すべての書類のリミットは12日となっている。給与の支払い日から逆算すると、そのあたりに書類が揃わないといけないのだろう。退職に際して企業秘密を漏らさない旨の誓約書を提出する。いざとなれば反故になる誓約書に何の意味があるか。リストラされて辛い立場に立たされた時、逆恨みをしない保証がどこにあるだろう。会社は再就職の為に万全のフォローを為さなくてはならない。今、問題となっている大企業の醜聞は、全て内部告発によるものだ。リストラ進行による内部告発は今後ますます増えることだろう。コンプライアンス(法令遵守)が企業の課題だが、叩いて埃の出ぬ会社があるとは思われない。大企業ほど危険な時代になっている。とてもきな臭い匂いがする。株価急落!退職を前に会社が倒産したら困るなあなどと埒もないことを考えている自分がいる。あの株価を見て暗澹とした同僚相当数いるのではないか。本当に嫌な時代になったものだ。

ジョギングは快調。二日続けて一日休むというリズムがいいようだ。


2002年9月4日 9月の過ごし方
淡々と仕事をし、10月以降の計画などを練り、身体を鍛えることにしよう。弛むことなく歩くことがとても大事と、改めて思うこの頃。 一日休んだら身体が軽くなっていた。走りが随分楽だった。


2002年9月3日 送別会の案内
お世話になった人にメールでアクセスを始めている。浦和時代に一緒に仕事をした仲間たちが集まってささやかな送別会。有り難い言葉であった。仕事に疲れた時に読んで下さいと「北アルプスの風」の添付をつけて送信したところ、「横山さんには、あのような世界があったんですか〜」私の意外な面を見たという意見が多かったなあ。もっとも仕事の場で「私的な事」を「開示する」のは御法度。会社を去るに際して「禁」を破ったことになる。まあ硬い事はいいっこなしにしよう。もういいだろう。

若い連中の中にも会社を去る者が増えている。依願退職だから退職金の額も低いものだ。それでも外に出て新しい環境に自分の居場所を見つけたいと思うのだろう。若い者はそれでいい。問題は子供を、ローンを抱えた中高年世代だ。会社を去る者、残る者、それぞれの思いを重ねる日々が続いている。人事の情報では「希望退職者」は基準の数に届かなかったそうだ。従って人事発令という伝家の宝刀を振るう事になるだろう。来年3月末までに更に1000人(おそらくそれ以上)に辞めていただくというスタンスだ。呵責なく「断行」するだろう。発令だから否応無しに配置転換に応じなくてはならない。もっとも地方に勤務する総合職にもしたたかな計算はある。

新しい発令による勤務場所は「本社」となる。社宅を配置され満員電車で通勤することになったとしても、関東近辺への引っ越し費用は会社負担。地方組にとっては、それだけでもコストの削減になる。自前で帰ってくればお金もかかるという読みだ。彼等は一時的に新しい部署に籍を置くだけであって、一月もすれば希望退職に手をあげる。社宅配置にせよ、会社は一時的に膨大な資金の流失を免れない。そういうコストも全て含んだ上での「改革」ということだ。来年3月までは、毎月「希望退職」に応じますと逃げ道を作ってくれている。但し3月以降は自己都合扱いだから退職金は激減する。利で動くのが人の常、ほぼ全員が3月末に姿を消すことになる。

こういう状況に若手が嫌気を指すのも致し方ないことだ。それでも会社に残って再生させるべく動いている若手もいる。是非、頑張って貰いたい。私も時期が来たら、違う立場から会社を再生させるべく動くことになるはずだ。その時は再び集まって美味しい酒を飲みたいものだ。


2002年9月2日 再就職登録手続き始め
退職へ向けての事務手続きが始まった。直ぐにではないものの来年4月以降の再就職活動へ向けて基本情報登録作業に着手した。職務経歴書他の書類も送信完了。9月10日1800、本社にてオリエンテーション開催。17日以降、最終書類の提出。合わせて退職に伴う退職金の税務、厚生年金、健康保険の任意継続等、さまざまな雑務がこれから入ってくる。総務は多忙を極めることだろう。9月は淡々と仕事をし、冷静沈着に日々の暮らしを送ることにする。もう峠は越えたのだから慌てることはないのだ。

久しぶりに夜のジョギングを行った。土日と予備練習を行っていたので、スムーズに走り通すことができた。汗をびっしょりかいた後に飲む冷たいお茶が美味しい。


2002年9月1日 公園風景
0600起床して公園に向かった。ジョギング半周歩き半周というリズムで汗を流した。仕事で使うエネルギーを運動量に換算すると一日20000歩くらいになるだろう。(頭も身体も使ってという前提で)10月以降の「毎日が日曜日」という環境下で生活リズムを維持するのは相当に難しいハズ。無理してでも、朝起きて「行く場所」を作らなくてはならない。目下のところ「行く場所」は公園、図書館ということになる。トレーニングジムも視野に入れ、いずれ山岳部にも加入し、次第に行動範囲を広げる計画だ。でないと極楽とんぼの私は、たちまち自堕落になってしまうからなあ。あは。

0700、ベンチでお茶を飲み身体を冷やしていたら、歳の頃は23.4才の若い兄ちゃんが自転車に乗ってやってきた。無言でベンチに座り、そのまま寝てしまった。見れば服のいたるところが破れ汚れている。頭には大きな円形ハゲがあり、もう何日もお風呂に入っていない感じ。おそらく食事も睡眠も取ってはいないのだろう。あの若さでホームレスとはいたましい。彼の辿ってきた人生の凄惨さが偲ばれる。想像を逞しくすれば、借金の取り立てからの「逃避行」の最中にあるのかも知れないと勝手な想像をした。

午後0400、再び公園に向かってトレーニングを行った。運動公園に少年野球の声が響き、その家族達が、わが子の活躍を見守る姿があった。幸せな光景と私には映る。朝とはまた違った光景。ベンチで将棋を指す人たち。歌に合わせて舞うおばさんの笑顔。サイモンとガーファンクル「旧友」のメロディが脳裏に浮かんだ。公園は彼等の社交場なのだ。子供連れの若い夫婦、演劇の練習をする高校生たちの溌溂とした姿、歩く人、走る人、車椅子でよろよろと動いている人、犬を連れて散歩する人、公園という駅を舞台にさまざまな人生が交差している。 そういう私も、トレーニングに励む市井の1人に違いない。

今日から9月。既に大勢は決定した。粛々と自分の仕事を為すばかりだ。幸いな事に9月は連休が2回もある。退職の事務処理は13日までには完了するだろう。淡々と仕事をすることにしよう。10月以降の計画も緻密に立て、くれぐれも「毎日が日曜日」にならぬようにテンションを維持しておかなくてはならない。さてさて。



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