山ダイアリー
2002年12月 

2002年12月31日 大晦日の風景
今日も家のメンテナンスで暮れた。ようやくパソコンデスク周辺のレイアウトを完成させた。白の化粧板一枚を100cmと80cmに切断して貰って二段構えの構成にする。実測したところ奥行きは25cmもあればいいことが判った。脚は小さなカラーブロックを重ねて作った。ADSL開通の後、たこ脚のように散乱するコードをまとめなくてはならない。コンセントの口数、少なくとも10個は要る。まったくPC製品の数の多さには辟易するなあ。更にプリンターまで揃える計画なのだ。会社に籍を置いている時は会社のプリンターが使えたのだが、そうもいかなくなった。

人込みで賑わう商店街に出向き、露天店で「みかん、やまいも、豆餅、らっきょう、なます、年越し蕎麦、あずき缶詰め、昆布巻き、鮭切り身」など正月用品を買い求めてきた。昨日行った床屋は長蛇の列だった。北習志野商店街を行き来する夥しい人と車、こちらで過ごす初めての大晦日風景をしみじみと眺めたことだ。何とか正月を迎えることができてホッとした。

紅白が始まった。今年の目玉は「中島みゆき」黒四ダムからの中継。ワインレッドのドレスに身を包んだ中島が「地上の星・皆どこに行った、見守られることもなく」と歌うシーンが圧巻だった。


2002年12月30日 晦日の風景
お風呂につける鏡、玄関のフック、年賀のお酒「越乃寒梅」正月用の「八海山」、細々とした雑貨とスーパー詣に町に出た。流石に車の量は少なくなっていた。娘に電話を入れ正月の過ごし方をそれとなく聴いた。屈託のない声で「明日駒ヶ根に行く」という。安心した。
午後からは散髪。@1000円ぽっきり格安の店は表まで人が並び立つ盛況ぶり。1時間待たされた。「短く頼みます」、、あっという間にバリカンで毛を剃り上げてくれた。先端までバリカンを使ってやるので「茶坊主」「マルガリータ刈り上げ君」風になってしまった。玄関口で木蓮が笑うこと笑うこと。しみじみと眺めて床に転がって何度も笑うのだ。むすっ。
昨日届いた「アラジンストーブ」が部屋を暖めている。石油ファンストーブの暖かさには及ばないものの、無音の青い炎がゆらゆらと波打ち突端に乗せた薬缶が、やがてチリチリッ、シューシューと密やかに音を響かせる図は実に風情がある。湯が沸せて煮炊きが出来て餅まで焼けるストーブはそうはないだろう。まるで野外の焚き火を家に持ち込んだようなものだ。ところどころ塗装が剥げているのも御愛嬌というべきだろう。30年経っても立派に現役というのが凄いではないか。つげ義春が描いた昭和30年代〜40年は皆貧しかった。生活を彩る、工夫するという点で卓越していた道具の原点がここにあるように思う。ただ暖めるだけの石油ガス化ファンヒーターという騒がしい不粋な道具は、当分出番はないだろう。これ一台あれば充分ではないか。補助としてパープルストーブもあるのだし。
「壬生義士伝」最終話を観る。守銭奴の汚名を着ても尚、身を賭して家族を守った男の物語に泣かされた。またしても浅田次郎に泣かされた。 正月封切りの映画も「壬生義士伝」だと!断じて見ないぞ〜。


2002年12月29日 ヤビツ峠
例年にない積雪だった。随所に霜柱が立ち登山道が凍結して歩くのに難儀した。アイゼンをつけるまでもなかったが急降下を余儀無くされる場所ではさすがに緊張を強いられた。転倒し、したたかに腰を打った。三ノ塔から眺める富士山は雲たなびき気品に溢れ神々しいばかりだった。家族の無事とおふくろの菩提を弔う為に合掌したら何だか満ち足りてしまった。塔ノ岳に至る雪の稜線を眺めてたちまち戦意を喪失してしまった。笑。例のお地蔵さんの赤頭巾は健在だった。篤志家の心遣いが偲ばれる。鳥尾山から南向きのエスケープルートを取り下山とした。丹沢名水百選とやらで珈琲を立てて飲み、土産の水を2L詰めた。1530大倉バス停に到着し帰路に着いた。


2002年12月28日 年賀状
生活の動線に馴染んできた。各部屋のスイッチの位置、部屋から部屋、お風呂、トイレ、洗面所までの移動距離、使い心地を身体が覚えてきた。環境に適応しようと身体も心も動くのだろう。それでなくては暮していけない道理だ。住めば都、どうやら団地暮らしにも馴染めそうだ。
今迄の負荷が一挙に軽減された解放感に浸って数日を無為に過ごしてしまった。遅ればせながら、ようやく年賀状を認めることができた。裏面のコメントを丁寧に書く余裕が欲しい。筆で書くのは今年を最後にして来年からは「名前・住所だけ」はプリンター出力に移行させことにする。95年以降、本当に心急く日々を過ごしてきたと賀状を書きながら思った。前橋〜浦和〜足立区新田〜鳩ヶ谷〜川口〜船橋と転居を重ね次から次に分水嶺を越える苦しさに負け余裕を失ってしまった。心ならずも袂を分かった大勢の人達に詫びの手紙を書かねばならない。散逸した人々を訪ね歩く余裕を取り戻さなくてはならない。これまでと、これからが同じであってはいけないと肝に銘じよう。来年の賀状は、もっと丁寧に認めよう。
歳末で賑わう商店街に出かけた。露天の店が延々と並んでいて壮観。眼鏡フレーム矯正は無料でやってくれた。ついでとばかり@1000円散髪に行ったが入り口まで人が溢れていたので逃げ帰ってきた。

2002年最後の山に向かう支度を整えた。早朝6:32の電車に飛び乗りヤビツ峠から尊仏山荘を目指す。富士山を眺めながら山麓に眠るおふくろの墓参も兼ねて心ゆくまで山稜散歩を楽しんで来よう。秦野市街の夜景一望が楽しみだ。非常食、ツエルト類も念の為装備した。そういえば昨年最後の山も丹沢だったなあ。山頂は凍結しているだろうからスパッツとアイゼンは必携だ。12本アイゼンの爪カバーを忘れない事。


2002年12月27日 巷は仕事納め
風の強い一日だった。リクエスト本(つげ義春全集別巻)を受け取りに図書館に出向いた。他に「中世の歴史」02巻を借り出した。図書館が至近距離にあるというのは何より嬉しい。辛く苦しい新田時代、歩いて3分の場所に図書館があったことで随分心が和んだものだ。 新しいモデムが届いた。肝心のNTT工事は来年6日に設定されていて年内稼動は没となった。あと一日、二日早ければ間に合ったのだが。 ようやく和室に小窓硝子が入った。引っ越しの「さかい」が使用段ボールの引き取りに来た。玄関に積まれていたゴミが綺麗さっぱり片付いた。オーバーホールに出していた「アラジンストーブ」は29日に戻って来るとの連絡が入った。復活ということだ。棄てなくて良かった!
昼食の後、炬燵で午睡を取る。なんだかんだと疲労が溜まっているのだろう。いくらでも眠れてしまう。留さんに電話。今、鹿児島駅に降り立ったところだという。青春18切符で山陽本線経由で帰省したとの事だ。仕事が見つかれば鹿児島で暮してもいいと言う。お互い長い旅をしてきた。羽根を休める場所があるだけ幸せというものだろう。伊藤叔母と叔父に電話をして近況報告。敷居の高い叔父宅は正月2日に顔を出すことにした。

「つげ義春日記」を読了。赤裸々な日常生活の点景が書き込まれてある。神経症(ノイローゼ)を発症する下りに、目眩、動悸、死への不安に怯えて暮した20代の自分の姿が重なった。それにしてもマキという奥さんの悪妻ぶりには畏れ入った。長男の正助に寄せる思いが滲み出ていて身につまされた。エゴの権化のような実母の無謀横暴もすごい。弟の忠男さんの影の薄さに胸が詰まった。貧困と自由に裏打ちされた抒情世界(自然主義リアリズム)が作者の感性であることは隠しようもない。支持する政党が「共産党」というのも頷けることだ。貧困に喘ぎ、その日暮らしをしていたあの時代の庶民にとって『共産党』は希望であり錦の御旗だった。まだ政治が輝きを失っていなかった時代のお伽話。


2002年12月26日 師走なり。
快晴。布団で夢を見ている間にベランダに積んであった段ボールの山を木蓮が1人で運び出した。往復5回、登ったり下ったり、早朝から階段トレーニングに励んだ事になる。力仕事は手伝うと言っていたのに。「だっていつ起きるかわからないから」と一言。結局、梱包も荷解きも設営も、そのほとんどを木蓮(と、その一族)が1人でやったことになる。(私は何をしていたのか、、う〜む。) 朝一番で若いペンキ屋さんが細部のタッチアップに訪れた。ドアの黄色を「いいですね〜」と盛んに誉めていた。満更お世辞でもなさそうな口ぶりだったので大いに気を善くした。続いて大工さんと女性の担当者が登場し敷居の襖がスムーズに開くように「スベール君」でメンテナンス処理。名の通り、襖の開閉がスムーズに運ぶから不思議。鍵のスペア2個発注した。最終点検を終え業者への支払いも無事終えることができた。これで8月から始まった騒動もようやく終息した。心忙しい2002年も後6日で終わる。『疲れたび〜。』
11時、昨日手配した道具一式が宅急便で届いた。ピッケル、厳冬用シュラフ、わかんの大物と細かな品々の値札を外し、とりあえずアウトドアルームに収めた。シュラフとモンベル羽毛ジャケットは開封し本棚に吊るした。頼んであったネームシールが郵便で届いた。登山に使う持ち物にひとつひとつ名前を書いておいて下さいとの講師の指示だった。ひとつひとつ手書きでは大変と思い104枚(@1800円)注文した。 名前と住所、電話、アドレスまで記載してある。携えておけば山で出会った人への名刺替りにもなる。便利な時代になったものだ。 http://www.sealex.com  
28日から丹沢に向かう支度も始めなくてはいけない。年賀状もまだ書いていない。木蓮もベランダでガーデニングで和み始めた。徐々に日常のリズムを取り戻しつつある。午後から図書館(けしからぬ事に休館だった!)、木蓮の実家、スーパー往来を済ませた。


2002年12月25日 神田神保町にて
ハローワークにて3度目の失業認定を済ませクリスマスで賑わう神保町に向かった。九段下から半蔵門線で一駅。A4出口から歩いて5分で「さかいや」に到着する。リストに従って商品を発注して行くだけで2時間近くかかった。これで教室で指示されたモノは全て揃えた。後は1月の開講を待つばかり。それまでに身体を作り上げておかなくてはならない。歩数計、ひさしぶりに12500歩を超える。そろそろトレーニングも本格的に再開しなくてはいけない時期になった。今月はもう無茶苦茶なリズムだった。 「書泉」本店で2003年山、花のカレンダーを求める。お茶の水駅近くの茶店「穂高」で山の雰囲気に浸りながら美味しい珈琲を飲んだ。入り口に灯る山小屋ランプが実にオシャレだ。明治大出身の植村直己氏もよく通った店だと言う。既に休暇に入って学生の姿もまばらになっていた。 頑張った木蓮への御褒美。津田沼イトーヨーカドーにてクリスマスプレゼントを選ぶ。新聞一面を使って話題になったお買得「羽毛ジャケット@10000円」を支度する。 北習志野駅で夕食の「カツ丼」二つを買って家に戻った。予想通り、木蓮が一日中丹精して各部屋のメンテナンスを行っていた。納得行くまで使いやすい工夫を重ねる技術能力は実証済み。ああでもない、こうでもないとレイアウトを工夫する楽しみの境地に居るらしい。こうなると私の出る幕はない。そうっとしておく方がいい。最後はワーキングデスク周辺のレイアウトを待つばかり。モデムとプリンター、スキャナー、MO、書類、電話、ファックス機器、雑然とした小物、パソコン2台を効率的に配置しなくてはならない。ある意味でここが一番やっかいになる。明日は今年最後のゴミ出し日。ベランダに積まれた夥しいゴミ袋を指定の場所に運ばなくてはならない。ガーデニング復活は近いぞ。笑。


2002年12月24日 諸事多忙
巷のにぎわいを横に眺めながら暮した数日だった。メモに基づいて必要な小物を揃える日々。部屋の隅に積まれた段ボールは27日に引っ越業者が、長さの足りない竿二本、洋服を架けていたラックなどの大物は市の業者が、それぞれ年内に回収してくれるように段取りを取った。灯りは全て新調した。奇しくも大掃除と同じ効果を持ったことになる。窓ガラスは最後にやることになるだろう。 午前中一杯でリビングとアウトドアルームを細かにメンテナンス。キャンプ道具以外は全てレイアウトを完了した。午後、警察署に出向き免許証の住所変更届けを出してきた。郵便局、スーパーにて食糧の買い出しを済ませる。 転居以来、初めてご飯と味噌汁が食卓に並んだ。五右衛門風呂の沸かし方も要領を得てきた。テレビを眺める余裕も出てきた。ようやく古色庵の生活スタイルが身体に馴染んできたようだ。明日は月に一度の職安詣。午後、神田神保町で冬山の道具を買いに行く。
クリスマスイブ。キリスト生誕を祝う世界の人々の静謐な祈りが地に満つる夜。まりあさん、ひろしさんの祈りのメッセージがMLに投稿された。祈りの意味を知っている人たちがここにいる。私にも生涯をかけて祈っていかなくてはならない人たちがいる。


2002年12月23日 8合目
引っ越し以来の快晴。久しぶりに洗濯物が風に揺れていた。荷解きの作業も漸く8合目を越えた。生活環境が次第に整いつつある。本日はアウトドアルームの設営がメイン。天井まで届く書棚に、それぞれの本が、押し入れには山とキャンプの道具が無造作に格納された。こまかな調整は後々の作業になる。まず段ボールを解かなくては始まらない。 ここ数日の籠城生活でいささか疲れた。午後から気分転換に、灯りとリビングボードの柱材を求めに出かけた。師走の街角、電器屋も人で溢れていた。お目当ての灯りだが和室とアウトドアルーム用のシーリングを二つ。玄関用の白熱球。食卓は大正ロマン硝子細工のオシャレなモノを選んだ。不足の灯りはすべて揃った。板二枚を並べただけの自作リビングボードの脚は丸太材を4等分に切って貰って当てた。


2002年12月22日 冬至
冬至、一年で一番陽射しが短い、ということは今日を境に段々陽が長くなるということだ。地球は一秒の休みもなく動いている。木蓮と両親が「こまごまとした日常品」の支度に町に出た。親子三人水入らずで過ごしていることだろう。嫁いだひとり娘が思いがけなく近くに住むことになった両親の喜びは想像以上だろう。その事を踏まえた親孝行をしなさい!と私は言った。具体的には気兼ねなく遊びに来れるように配慮してあげる事だ。日常のこまごまとした事柄で親に負担をかけることも立派な親孝行なのだ。テレビのアンテナ線、家具の移動配置などなど、技術屋の親爺さんの活躍する場面は一杯ある。その局面を見つける度に「頼む」ことが「親孝行」。「俺が行かなくてはダメと言っているぞ、どうもあの極楽バカ旦那は頼りにならないらしい」プライドの高い親爺さんを動かすには錦の御旗、大義名分が必要だ。お母さんは来る度に「米、味噌、食糧」などをせっせと持参してくる。すべては可愛い娘の為に、である。まことに親の気持ちはありがたいものではないか。
おくろ生きてあれば77才、直情怪行、頑迷で強情な人だったけれど、その専横な愛情表現に辟易もしたけれど、私には甘い親だった。これから親孝行をすると言う時に、、。持病の心臓疾患治療に病院送迎をしたことが唯一、私の親孝行の真似事だった。むろん親不孝の数は数えようがない。遺影を飾らなくても私の傍にいつも居て「まあちゃん!こづかいあるんかね」と優しく語りかけてくれる。幼少の頃、喧嘩相手だった兄も79才で眠るように世を去った。今頃は黄泉の国でさぞかし激しい喧嘩をしていることだろう。合掌。ちなみに、おふくろの干支は「寅」である。木蓮の干支は、、ぎょっ「寅」ではないか。どうりで木蓮が私を「まあちゃん」と呼ぶ訳だ。親爺さん、お母さんまでもが「まあちゃん」と呼ぶのは流石に照れくさいなあ。

前住人から譲り受けた骨董品アラジンストーブ1974年製をオーバーホールに出した。一度は廃棄処分にすると決めていたのだがオーバーホールして使うことにした。60年前にイギリスで開発され、モデルチェンジを重ねた37型石油ストーブは復活するだろうか。機能一点張りではない骨董品も味わい深いものがある。1974年11月19日に購入のシールは、古色庵建造の時期に一致する。この庵で夢を育み生活を営んだ家族を暖めたストーブである。薬缶を乗せておけば加湿器にもなる。大事に使ってやろうじゃないか。
お風呂場の排水管と器具が赤錆で凝固していた。数年にわたって使用されていなかったらしい。錆がぼろぼろに堆積し付着していた。これでは排水もうまくいかないはず。ドライバーと金づちで削ぎ落す作業を入念に行った。水は勢いよく流れ出したが、やはり排水管の老朽化が相当進行している。明年1月から始まる全棟を対象にしたリニューアルは、まさしくこの排水管の交換がメインになる。30年も経てば何処でもそうなるだろう。


2002年12月21日 段ボール山脈
朝から冷たい雨。午後3時頃から雪模様との予報が出ていた。寒さに震え上がって一歩も外に出なかった。 昨日の一家総出作業で段ボールの山を一気に5合目までラッセルした。(私はほとんど役に立っていないのだが/笑)台所、居間、リビング、寝室の荷が解かれて、それぞれの荷物が元あった場所に戻りつつある。炬燵も設置した。元あった場所に一旦収めて、それから新しい工夫を重ねればいいと木蓮は言う。なるほどそうだと納得したことだ。かくして何が何処にあるのか皆目判らない宿ロク亭主ができあがる仕組み。ズバリ、やっぱりそれはマズイでしょう!終の棲家を得て、さてこれから私の晩年の始まりということになるのだろうなあ。

図書館より「リクエストの本が届きました」との電話ある。ここ数日の耽読で「つげ義春」をほぼ把握しつつある。貧困と自由の世界で紡ぎ出した作品群と、作品が生まれた背景などの対話集をつぶさに検証していたのだが、思っていた以上に深みがないように感じた。対談の相手がことごとく的を外す無能ぶりで笑ってしまった。代表作「無能の人」は世捨人に憧れる作者の吐息が随所に現れていて切ない。どうやら吐息漫画と断定してもよさそうな気配。一見意味ありげな描写も、周囲が考えるほどの重みを持って描いたと言う訳ではなさそうだ。生活の為に描くというスタンスには拍子抜けしてしまった。生活の為、あくまで「漫画の職人として」描いた作品で「おもしろいかおもしろくないか」のレベルを越えることはないと作者は思っていたようだ。「貧困旅日記」の文章は漫画以上に面白い。クラシック音楽、太宰 治などの影響も受けているようだし「認識する」ことの意味も深く理解している人と見た。モノトーンで描かれた「挿し絵」の存在感は優れた「絵」として味わうことができる。おふくろと共に過ごした懐かしい昭和30年〜40年の時代が丁寧に描かれている挿し絵の全集が出たら買ってもいいなあ。


2002年12月20日 新田時代
今年最後の歯科と内科往来。古巣の会社に出向き社宅退去届け、社宅の鍵の返却、娘の健康保険証異動届け処理を済ませる。わずか3ヶ月前なのに「懐かしい」と言われてしまったのには苦笑した。
北習志野駅に降り立ち陸橋から習志野街並を俯瞰し「ここが生きて行く場所なんだなあ」としみじみ眺めてしまった。書店で時間を潰して午後3時頃に帰宅。木蓮の両親が朝から来て荷解きの手伝いをしてくれたお陰で生活環境が急速に整いつつある。生活する工夫の引き出しを一杯持っている世代の知恵は凄いものだ。木蓮もその血筋を引いて様々な工夫を生活に具現化することができる。その点、私は本当にノホホン極楽トンボで過ごしてきたのだと改めて思う。さすがにちょっと恥ずかしい気がする。
SNOW PEAK製の竹テーブル、椅子、ワーキングテーブルを設置しPC を接続するところまで進む。食事とお風呂とテレビも使えるようになった。まだ仮設置だが取りあえず使えるというのはいいことだ。足立区新田で暮した時代を彷佛と思い出させてくれる棺桶お風呂。そもそもシャワーが壊れていて機能しないのには畏れ入った。追い焚きはできるのだがシャワーができないので桶を使って頭を洗わなくてはならない。まるで五右衛門風呂みたいだ。まさしく新田時代の野性的生活様式と大笑いしたことだ。もっとも山中で温泉に入ることを思えば極楽というもだろう。半年ほどは、このワイルド生活に慣れなくてはならない。なければないで工夫を重ねる知恵が大事なことだ。
段ボールの山から読書用の枕元スタンドを探し出す。これさえあれば読書ができる。


2002年12月19日 引っ越し当日
0830〜1600近くまでかかって荷物を搬出。退去・入居の挨拶を済ませ木蓮の実家で夕食とお風呂を馳走になる。明日から荷を解く作業に入る。何とか正月を迎えることができそうだ。段ボールの山に囲まれて就寝した。あまりにも静かなので驚いた。


2002年12月18日 引っ越し前夜
庵にて新しい鍵を受け取った。ドアは指定したゴッホの色に塗られていた。予想通りのイメージに仕上がっていて満足した。明日から使用する為に「部屋」「中古のお風呂」の掃除を丹念にやった。最後にダニ退治のボンベを各部屋に置いて噴射しドアを閉めた。明日の搬入を待つばかりになった。
全面改装を施したとは言え、間取り、柱、トイレ、浴槽、洗面所と、いたるところに30年前の生活様式を残している。アルミサッシの外枠ですら古典的だ。お風呂もガチャガチャとハンドルを回転して点火する方式で浴槽も小さい。もっとも来年6月には全てがリニューアルされることになっている。集中給湯システム導入により快適文化生活が送れる。日当りの良い南向き三室という空間は今時のマンション建築では到底不可能だろう。団地サイズの規格で『LDK』という生活様式を初めて取り入れた、当時としては画期的な作りであったらしい。『システムキッチン』(むろん現代のようなものではないが)『テーブル』を使って家族4人が生活できる空間にこだわるというコンセプトで作られた。そういいながらトイレの中に配管がズド〜ンと通っているのが可笑しい。マッチ箱のように狭いのだが立派に洋式である。今回、コンセントを増設し便器、ウォシュレットを新設した。寒い冬に凍てついた便座にお尻を乗せたら風邪引いてしまうではないか。あは。エアコンなしで暮した足立区新田時代のボロアパートに比べれば問題にならない快適さ。そういえばあのアパートもガチャガチャ点火方式だったなあ。今住んでいる社宅も昨年9月まではガチャガチャ点火だったらしく、リニューアル時の生活混乱は大変だったらしい。

30年を経て、さすがの鉄骨5階建てもメンテナンスの時期を迎えた。一軒家であれば建て直しの時期だ。水廻りとガス配管を全棟を対象に億単位の積立て金を活用して根本的にやり直すというのだから大事だ。全面改装を施せば更に30年は持つし資産価値も上がるのだそうだ。住環境の充実、交通至便、管理組合がしっかり機能しているというのが購入の大きな要素だった。民間のマンションでは各々の利が錯綜し決してスムーズには運ばない。住民の世代交代も、どうやらスムーズに行われているようだ。

明日は0830から搬出開始。忙しい一日になりそう。


2002年12月17日 あっちこっち
図書館〜自宅〜郵便局〜銀行〜古色庵〜社宅〜再び図書館〜社宅と雑用で暮れた。つげ義春関連の書物をどっさり借り出して来た。この忙しい時期に「つげ義春」はないだろうと私も思うのだが、どうも気になって仕方が無い。貸し本時代を経験している世代であること、その頃よく借り出した作家の1人が水木しげるであったこと、彼がその門下で修行したことなどを知るにつれ、母と共に暮した時代の匂いと生活の記憶が一気に蘇ってきた。亡き母は水木しげるの大ファンで私が借り出しに行かされたのだった。後年、「ゲゲゲの鬼太郎」TV登場で一世を風靡したが、私は遥か以前からその存在を知っていた。懐かしい水木しげる「墓場の鬼太郎」、無音の画風を受け継ぐ「つげ義春」をとことん読んでみようと思っている。たかが漫画、されど漫画と言うべきだろう。その影響もあって30年前の骨董品「アラジンストーブ」をオーバーホールまでして使うという仏心まで出来する有り様だ。修理代金は大凡@10000円!新品の灯油ストーブが買える値段だ。笑。
梱包作業も最終局面に突入した。リビングの生活小道具も段ボールに納まった。庵の清掃は明日することになった。木蓮がダニアースを買い込んで来たのには畏れ入った。今日、明日で永年にわたった社宅生活に「さよなら」だ。早く落ち着いて山に向かいたい気分。


2002年12月16日 最終局面に至る
現場往来で慌ただしい一日を過ごした。建具、畳、電気工事、それぞれの職人さんたちが仕上げの仕事に取りかかっていた。襖、配線、建具の調整などの微調整は「今日の現場」で言わねば埒があかぬとばかり午前、午後立ち会いに出向いた。午後3時、畳が搬入されて来た。電気が灯った。玄関の収納棚も完成した。前住民の匂いは一掃することができた。ほぼイメージ通りに仕上がったようだ。生活の道具たちの図面上の配置も終わっている。どうやらソファーを置くスペースは確保できそうだ。来年6月に施工される一斉リニューアル時には水廻り、ガス、浴槽、洗面所が一新される。それまでは辛抱しなくてはならない。それ以外は全てやった。明日一日かけて清掃を行い19日に備えることになる。お風呂掃除と雑巾がけ位は「私の仕事」でいいだろう。笑。骨董品のアラジンストーブ1974年製は一旦廃棄処分を依頼していたのだが、なぜか廃棄されずにお風呂場の隅に居座っていた。「棄てないで下さい」という切ない声が聴こえたので修理をして使うことにした。これもつげ義春の影響ではあるまいか。
木蓮の奮闘により明日明後日で梱包作業を終えるばかりとなった。PCデータのバックアップ作業も万一に備えて行った。8月末以来、まったくやっていなかった。それだけ慌ただしい日々を過ごしていたと言うことだ。今日もトレーニングに出ることができなかった。いやはや。


2002年12月15日 つげ義春全集
全集8巻を借り出し一気呵成に読了。絶望的な貧困と気侭な自由、奇妙に明るい資質もある私小説的漫画作品。魂の安息を求める彷徨の旅が綴られていた。不安神経症の作者は自分自身を投影するかのように、ことさらに場末の温泉、宿に投宿して自らを慰める傾向性を持つ。昭和30年代、黴臭い時代の匂いと不安を基調とした万象の質感が精緻な筆で丹念に書き込んである。代表作「無能の人」はやるせなくて、どうしよもない情けない男女の哀しみを描いて多くの共感を生んだ作品。「それは他ならぬ自分だ」と琴線に触れるから尚始末に負えない。笑。お陰でトレーニングに出ることができなかった。
台所の道具たちが段ボールに納まった。明日は茶わん類が段ボールに納まる予定とのことだ。


2002年12月14日 幸せの黄色いリボン
古色庵に赴く。細かな点の補正は現場に行かなくてはいけないようだ。人は思った通りには動いてくれない原則を実感することが多い。 「こだわりの仕事をします」と多くの業者は言うけれど、いざ現場に立つと流されて適当な仕事をしてしまうものだ。本来、水平であるべきモノが斜に取り付けられていたりする。それをおかしいと思わない神経が油断に繋がる例もあるだろう。仕事内容は精緻に検証されなくてはならない。「いい仕事をしている」その評価が大事なのになあ。
公団のドアの色褪せた青は共有施設になっているから変えようがない。せめて内側だけでもとこだわった。ヴィンセント・ゴッホ「夜のカフェテラス」の燃えるような黄色に決定した。 http://www.image.shogakukan.co.jp/line_up/Gogh/Cafe/ ゴッホがこだわった黄色、確かに奇抜ではあるが、そこだけ強烈に自己主張するドアの存在感は増すだろう。
社宅のスタッフと談。30才がリストラの下限に設定されたとのこと。難破船からの逃げ場所を作ってやったという事になるのだろう。将来の核となる若い優秀な人材がボロボロと欠けて行く図が展開する。配置されたスタッフの負担も限界に来ているようだ。サービス出勤を余儀無くされている。9月末でキャリア室に異動させられた同僚も1月を経ずして退職したとのことだ。(あれだけ行くなと言ったのに!)政治もきな臭い、銀行も大リストラを敢行し資本増大の債権回収に動き出す。庶民の貯金は増える一方で市場に金が廻らない。設備投資に動く企業は激減する。デフレの連鎖は収束しない。2003年は更に悪い循環になりそうな気配だ。


2002年12月13日 忘れ物
歯科と眼科往来。電車に忘れ物。津田沼駅近くで買った昼食の美味しいそうなパンだった。う〜む、実に悔しい。パンに名前を書く訳にもいかないしなあ。そういえば2月の山行の折には持ち物全てに名前を書いてくるように指示されていた。雪で迷子にならないように手袋には紐をつけて来るようにとも。そろそろ購入リストを作成しておく必要がある。山口県在住の「みちたけ氏」お勧めの羽毛をゲットしよう。
購入リスト一覧
●肌着(トランクス替2)●目出帽●首巻●手袋予備(2)●わかん(大)●ピッケル●ゴーグル●羽毛800gシュラフ●カラビナ(変型D)(1)●カラビナ(変型D安全環付き)(1)●スリング(5mm幅 2m×2)●サマーレスト(半身用)●羽毛ジャケット


2002年12月12日 真っ白な壁ではなく
家の壁はクロスではなくペンキ塗の処理を依頼した。前住人が素人工作で塗った色は「ホルマリン」を想わせるものだった。天井は白のクロスを張ったので壁は「優しい白」ということでお願いした。10:00色出しの作業に立ち会いを要請された。既に見本の色が塗られていた。場数を踏んだ職人さんの感覚は正しい。周縁の木材の色と合わせて絶妙のバランスで色合わせをやっていた。素人の出る幕ではないだろう。徐々に姿を整えつつある「古色亭」であった。転居まで一週間となった。

トレーニング二日目。昨日と同じ量をこなして筋トレも少し負荷をあげた。よしよし、この調子。


2002年12月11日 靴磨き
暖かな日溜まりのベランダで靴磨き。ほぼ2ヶ月履かなかったので革が堅くなっていた。ミンクオイルをたっぷり漬けてメンテナンス。そういえばテントの破れも修理しなくてはいけない。転居して落ち着いたらじっくり取り組んでやろう。
流石にそろそろ再開しないとマズイだろう、、という事でトレーニング再開。薬円台公園に向かう。まず5周をじっくりと歩き通し、最後の一周を軽くジョギングで流した。歩数は10000歩に僅かに及ばなかった。まず三日間が壁だね。徐々に、ゆっくりペースをあげていきましょう。


2002年12月10日 図書館
快晴の空、昨日の雪がまだ溶けずに残っている。0900業者より電話有。塗装の色を決める立ち会いに出向く。ペンキだらけの作業服を着た親方が木材の色を調合していた。その傍らで若い兄さんが塗装する為のシール張りをやっている。匂いがあるというので窓は全て開放。暖房もなしで仕事をする人達、この寒空の下での仕事は大変なことだ。

「つげ義春全集1〜8巻」をリクエストする。「貧困旅行記」を読み、いささか感ずるところがあった。昭和30年〜40年代にかけて一世を風靡した「ねじ式」に始まる作品群を再読してみたいと思った。作品が生まれた背景と、それを描いた作者の魂の一端に触れるには作品を読み込むのが一番だろう。決してポジティブな作品ではないが、正直に自己を照射する文章と無音が醸し出す絵の世界は哀しいほど心に響く。この忙しい時期に「つげ義春」はないだろうと木蓮は呆れ顔。ご尤も!と頷いてしまった。

今月に入ってトレーニングがまったく出来ていない。そもそも歩数計を持ち歩かなくなったことがダメ。2月の富士山に備えて体を作らなくてはならないのだが、すっかりリズムを壊してしまった。これだけ体を休ませると「元の木阿弥」なのだが(それに昨日の雪だろう)、いつかは再開しなくてはならないのだが、、。どうやら「つげ義春の世界」に毒されてしまったようだなあ。笑。併行しながら日本の中世シリーズ(全12巻)を読み始める。寝る前の睡眠薬みたいなもの。お酒も買って来なくちゃ。
段ボールの山が堆く積まれて行く。忙しく立ち働く木蓮の傍で、段ボールの詰め物に使う新聞広告を眺めながら手分けする。今日でアウトドアルームが片付いた。明日からはリビングに着手するとの事。


2002年12月9日 雪よ!岩よ!
本来であれば今日は大倉から塔ノ岳に向かう日だった。時ならぬ雪に驚きつつも新雪を踏み締めてひたすら頂上を目指して歩を刻んでいたことだろう。0700木蓮に起されて覚醒。静かに降りしきるボタン雪を窓から眺めた。関東一円、電車、車、人すべてが渋滞する月曜日の朝となった。奥多摩、丹沢の山々も雪に埋もれていることだろう。「雪よ、岩よ、我らが宿、俺たちゃ街には住めないからに〜」と歌った昭和30年代の山男達の心情に迫るべく、齢50才の坂を越えて雪の頂を目指す一歩を踏み出した。酔狂というべきだろう。笑。
今日から荷物の梱包開始。北園の再現、木蓮の鮮やかな手際でアウトドアルームに段ボールが積まれていく。書棚と山道具、キャンプ道具が端正に段ボールに格納された。いつもながら見事な手際でホトホト感心して見ていた。私は衛星のように徘徊するだけで、時たま段ボールを運んだり、時には肩など揉んだりして気を使ったりするのだが、有体に言えば何もすることがない(何もさせて貰えないというべきか)。ただたただ窓の外の雪を眺めて過ごしていた。
福山通運よりワーキングテーブル届く。流石に大きいが、これくらいの広さがなくてはダメ。市販のパソコンラック、そのほとんどが実用的ではない。PCに搭載するメモリの量より本当にこだわらなくてはならないのは机の広さではないか。


2002年12月8日 登山学校
寒々とした空模様。大倉にある丹沢山岳センターにて1100から冬山講座が開講された。参加メンバーリストが配付される。女性3名を含む14名が今季のメンバー。いずれも中高年であった。ひとり若い兄ちゃんが所在なさげに座っていた。聞けば長男と同じ24才だった。皆、冬山への憧憬を胸に秘めての参加だ。来年3月までのレクチャーと購入する道具への精緻な説明が行われた。一挙に揃えればかなりのモノ入りになるだろう。ピッケル、わかん、羽毛800gのシュラフ、ゴーグル、予備手袋、その他こまごまとしたものを来年1月までに支度しなければならない。6〜7万位の出費になるだろうか。基礎訓練とはいいながら零下の富士山での滑落停止訓練、ザイル使用、谷川岳でのビバーク、雪洞生活、わかんを使ったラッセル登頂と本格的な内容になっている。登山を始めて10年目にして雪山にチャレンジする。春夏秋冬の山を語る為には避けて通れない壁と思って、少しづつ道具を揃えてきたことが漸く実を結ぶ。いよいよ始まった私の冬山。発刊されている夥しい山岳書のほとんどが沢、岩、冬山をベースにした山行で綴られている。その行間に溢れる経験を共有し味わう為にも「冬山」を登る必要があった。


2002年12月7日 登山学校
予ての計画通り来年度の千葉県山岳連盟登山学校入校手続きの為に千葉県松戸市に出かけた。山岳会として増大する中高年の事故に対処するべくボランティア登山学校を開講しているとの事だ。1300からの開講に7人ほどの参加があった。県内各地で生徒を募集しており20名定員になり次第〆きるという。5人の生徒に2人のスタッフを配置し1年という時間をかけて基礎から教え込むカリキュラムになっている。岩、沢、雪山全てが学習の範疇に入る。参加メンバーは若い人もいたが大方は中高年で占められていた。中には全く山に登ったことのない人もいた。迷わず入校申込書にサインし提出した。今年度の冬山教室と併せて2003年の山の基本スケジュールの軌道は敷いたことになる。

寒い一日だった。帰宅すると木蓮が嬉しそうにアウトドアルームに私を差し招く。snow peak製テーブルと定番の椅子が組み立てられていた。 「もう来たの!」
竹の質感を活かしたテーブル、緑とワイン色の椅子二つ、予想通りのイメージで満足した。ワーキングデスクに合わせた専用の椅子も到着していた。360度回転するイームズ調の椅子も絶妙の味を醸し出していた。


2002年12月6日 続レイアウト顛末
居間に置くソファーの事で意見を交換する。木蓮はともかく、私はソファーのある暮らしというものに免疫がない。あのような巨大な道具は無用の長物ではないかと堅く信じてきた。その私が一夜にして宗旨替をするような「いい女」に出会ってしまったのだ。

秋冬通信販売の冊子の特集は「古都鎌倉」。50年代を思わせる古風でレトロな商品群で構成されていた。その中の一枚の写真が私の目を釘付けにした。「鎌倉、木造平屋建て、庭、日向の縁側、小さな赤いソファー」というコンセプトで統一された写真集。卓越した編集者と腕のいいカメラマンの技術により、あろうことか「急性ソファー欲しい欲しい病」に罹患し一昼夜にわたって高熱を発することになった。これが現代的な趣向というのであれば私もおめおめ病に臥すような事はなかったろう。木造、縁側、庭、昔懐かしい不思議な色の赤いソファーは私の幼い頃の記憶を呼び覚ました。寄る年波により、やたら涙脆くなっている私に(ここ、数日テレビを見ては泣き、ビデオを見ては泣いている始末だ)、昔を彷佛とさせる写真集は心に堪えた。PC 専用1800mmの特大メタルカラー・ワーキングテーブルとsnow peak製のテーブル三点セットを発注するという大英断をやった事で、影を潜めていた危ない物欲が転居という触媒相乗効果により爆発したようだ。笑。
白々と朝を迎える頃、悲しい事に、私にはどう逆立ちしてもソファーを使う生活が見えて来ないことが明白となり、さすがの高熱も潮が引くように去っていった。まさしく一夜の夢であった。(本当かな〜・木蓮の言葉)

●朝令暮改のリニューアル業者。
午後、元気のいい鶴女史が来て「お待たせしました。18日に引き渡しできます!」と告げた。今朝方まで「ソファー談義」の疲れでグッタリしている所にタクアン石を落してくれた。「う〜む、そうか」と唸り、徐に電話器に手を伸ばしたことだ。「引っ越しの坂井」に架電し「転居日の変更」を申し出る。先日に続いての変更申し出だったので恐縮した。折衝の末、19日に決定した。年の瀬、25日のクリスマス夜逃げ的転居は避けることができて安堵した。2週間あればお正月を何とか平穏に迎えることができるだろう。めでたしめでたし。木蓮様より9日から梱包作業に入るから緊急体制を取るようにとの指示があった。諸般の事情により丹沢の山も19日以降にお預けとなった。まあ仕方ないだろう。

●ADSL 12Mアップ作戦
転居に伴う様々な手続きの電話を終える。その一つにプロバイダの移動手続きがあった。現在の8Mから12Mに移行させる手続きと併せると事務手数料が嵩むことが判明した。業者のアドバイスにより一旦解約して、再度申し込むことになった。19日までは正常に使えるが新しいモデムが来るまでの3週間ほどはダイアル回線での接続となる。極力、インターネットを使用することを差し控えねばならなくなった。



2002年12月5日 レイアウト顛末
昨夜から家具配置をめぐり議論百出となり収拾がつかなくなった。今日の午後、改めて現場に赴きスケールを当て現場検証を子細に行った。 パソコンデスクは1800mm一枚板を準備。可変式の椅子を一つ。食事テーブル、椅子はsnow peak製定番を準備することで決着し、すべて発注を完了した。今ある道具は全て活用できる効率的なレイアウトが完成した。3LDKは二人で暮すには充分のスペースなのだが、それだけに生活の動線を考えた配置が求められた。パソコン本体2台を並列に置き、キーボード、マウス、本、書類を広げるスペース、 電話FAX、MO、スキャナー、携帯電話電源等をひとつにまとめるには180mmの長さと700mmの奥行きが必要だった。180mmあれば二人並んでパソコンに向かうこともでき作業効率が大幅にアップする。椅子は食事用の軽いsnow peak製を移動させるだけでいい。
食事テーブルは重量感ではなく「軽いタッチで明るいイメージ」で探していたのだが、意外や意外、アウトドア用のテーブルと椅子が適していることが判明した。今現在使っているキャンプ用テーブルに違和感がなかったこともある。テーブル材料はおごって「竹製」にした。竹製のテーブルというのは、そうはない。椅子はsnow peak定番品で秀逸。両脇にひじ掛けがついていて、ゆったりとくつろげる。固定観念を捨てて自由に考えた結果だ。


2002年12月4日 台所と鏡台
「匠」が演出するリフォーム番組は、私と木蓮のお気に入りだ。今回の企画にはことさら泣かされた。
それまでの賃貸暮しからようやく手に入れた家は築80年という2軒続きの長屋(1/2)が舞台。住んで8年、慎ましくも様々な工夫を重ねて暮してきたがもはや限界!と御主人が語った。登場した「匠」はいかにも聡明で優しさに溢れた女性一級建築士。主婦の視点から全てを見直し予算500万で大胆なリフォームに取りかかる。暮すことが「困難な状況の人」を取り上げる企画は秀逸だ。今時の、贅を尽くす快適リフォーム番組とはスタンスが違う。住むとは、暮らしとは、暖かさとはこういうものだろうというヒューマニズムに満ちたリフォーム思想がある。

「いつもは近くの銭湯に行くのですが毎回と言う訳には、、」と奥さんが語る場面。 「さてお風呂入ろうか」御主人が玩具用のプールを狭い台所に広げる。子供がペットボトルをカチャカチャと継ぎ足し連結パイプにする。給湯器に繋いでお父さんの背中に注ぎ始めたあたりで「じわ〜ん」涙が出てきた。何と健気な男の子だろう。何と優しいお父さんだろう。 奥さんは布団を重ねてしまうのだが崩れ落ちないようにパイプで押さえ付けるという工夫を重ねている。 8帖は食卓であり居間であり寝室なのだ。親子三人の布団を並べれば、それで一杯という有り様。そういう生活でありながらも微塵も暗さを感じさせない家族に知らず頭が下がってしまった。「匠」は小さなシステムキッチンの端に「白い折畳式鏡台」を作ってあげた。「お母さんだけの空間」は頑張ってきたお母さんへのプレゼントだという。何という心憎い配慮だろう。屋根に大きな採光窓を開け諦めていた「子供と一緒に入れるお風呂」を作った。換気窓を作ってお風呂場で洗濯干しができるようにした。まったくなかった収納棚も工夫し布団が楽に出し入れできるようにした。居間も、寝室も、子供の勉強部屋も、お父さんの仕事場(パソコンルーム)高さを利用して作り上げた。 最後の場面は「お風呂場」。生まれて初めて自分の家でお風呂に入るお父さんと子供の図。髪の毛にシャンプーをたっぷり付けて洗う子供の伸び伸びとした姿。家族が揃って食卓に並び(椅子だ!)野菜とカレーライスを笑いながら食べる図。暮しとは、つまりこういうことなんだとしみじみと教えてくれる。奥さんが語った言葉「こんな立派にして貰って勇気が湧いてきました。ガンバらなくちゃ!という気持ちになりました」
我が身を振り返り「中古3LDK公団に何不足がある!」と反省させられてしまった。必要にして充分のスペースがあるではないか。足るを知らない傲慢さ!襟を正して慎ましく暮していこうと思った。良い番組を見たなあ。


2002年12月3日 メール
歯科往来で船橋。就職して仕事を始めた娘よりメールが入る。「人に恵まれて仕事は楽しくやっています。最後のお願い!昼夜のおつき合いでお金がピンチ!給料が入ったら少しづつ返すから貸して下さい」帰国以来、半年に及ぶ就職活動と兄との共同生活で資金が底を着いたことは容易に想像できた。勤め始めてまだまもない。初任給すら貰ってもいないはずだ。「幾らだ」「100000円!」「了解した、今日中に送金しておく」「サンキュー!」事の顛末を木蓮に報告すると、恨めしそうに私の顔を見て言った。「わたしも、そんなふうにちゃっかり親に甘えてみたかった!」う〜む。
しっかり者で優等生というイメージで過ごしてきたもので「お父さんに甘えることができなかった」と言うのだ。
まだ生きているのだから、今から甘え倒せばいいだろうと提案しておいた。死んだら甘えることもできへんで!そういう私は母に甘え、妻に甘え、子供に甘え、、う〜む。説教垂れる資格は指一本ないなあ。


2002年12月2日 親分はイエス様
急遽、九段下に赴く。希望者多数の為、面接ではなく書類選考になったというので経歴書を一部書き直す必要があった。次に九段下に出向くのは年明けになるだろう。 前々から念頭を去らなかった「親分はイエス様」をi Mac/DVDで観た。「極道が神を信じた時、本当の愛の物語が始まった!」「誰だってもう一度やりなおせるんだ」事実に基づいて作られた映画だけに説得力がある。十字架を背負って日本、韓国と懺悔の旅を続ける極道たちの生きざまが胸を打つ。奥田瑛治の迫真の演技に泣かされた。


2002年12月1日 師走
1日:雨の為、沈滞。晴耕雨読(寝て暮した)
2日:トレーニング再開。弛むことなくトレーニングを継続する。
3日:歯科と内科往来。
4日:HR総研出社。市ヶ谷にて離職後初めての会社面接。まったく念頭にない会社だが緊張感の維持に一役利用するというスタンス。
7日:千葉県山岳連盟主催の平成15年度開講「登山学校」入校。冬山も含めてオールラウンドな登山を目指す為の基礎講座。ほぼ一年という時間でテーマを持った実践訓練に参加する。松戸にて開催
8日:神奈川山岳連盟主催「冬山教室」。神奈川山岳スポーツセンターにて開催。12月〜来年3月まで、冬山での訓練に参加。厳冬期は無理としても雪解けの八ヶ岳春山テントを目指す。カリキュラムのメインは基礎講座受講、富士山でのピッケルを使った滑落訓練並びに谷川岳でのザイル、雪洞経験、谷川岳冬期登頂。本格的な冬山装備で臨む。
9日〜11日(予備日1日含む):丹沢主脈縦走、小屋泊で挑戦する。丹沢は昨年の暮れ以来の事。塔ノ岳山頂直下に立つ、小さなお地蔵さんに会いに行く。今年もかわいい赤い頭巾が見られるだろうか。



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