山ダイアリー
2003年2月 

2003年2月28日 終わりよければ
主催していた「星と嵐」を一旦閉鎖する案内を出した。いつの日にか「復活」させることも視野に入れ、暫時部屋を閉じることを決断した。思えば心温まる人たちの集まりだった。心から感謝したい。

2月は目標の基礎トレーニング量を完遂した。いよいよ明日からランニングを含めたトレーニングに移行することができる。ひと月、走ることへの誘惑によくぞ耐えたと思う。明日からは週2回のランニングを目標に掲げた新しいプログラムがスタートする。どうやら春雷の予感。今日は2ヶ月ぶりに散髪に行った。


2003年2月27日 祥月命日
せめて好物のお茶と煙草、蕗の煮物を仏前に添えて合掌していい一日ではなかったか。実に、ぐうたらな一日を過ごしてしまいました。
「おふくろ、まあ煙草でも一本どうやね」
「茶は京都から取り寄せた極上もんやで」
「おかげさんで元気で暮らしているから安心したらええ」
「コーヒーも飲むか」
「小遣い銭はあるから心配せんかてええで」
「何、肩揉んでくれてか、判った判った」


2003年2月26日 映画
予定通り映画館に足を運んで「壬生義士伝」を観てきた。大勢の若者が列をなして並んでいたのだが、それは「ロードオブザリング」を観る人たちだった。なるほど私が若ければ「あちら側」に当然並ぶだろう。原作とは違う設定が随所にあったが2時間半瞬きを忘れ泣かされてしまった。貫一郎を演じる中井、斉藤を演じる佐藤はともかく脇を固める役者が大根ばかりで、いささか食い足りない趣だった。お正月12時間TVの方が、より原作に近いという印象を持った。(時間の長さがそもそも違うのだが)あれがビデオ化されたら今一度観てみるのもいいだろう。同じく封切りされていた「たそがれ清兵衛」も良い映画らしいのだが、これはまた折りをみてのこと。

栞に書かれた紹介文を備忘の為に転記しておく。
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●『まっすぐに泣く」ことでしか伝えられない、美しくかつ力強い感動作の誕生!混迷する現代社会の汚れや悲しみを全て洗い流してくれるような、美しくかつ力強い感動作が誕生した。誰もが生きている限り、自分の胸に幾度となく問いかける言葉がある。「人はいったい何のために生きているのか?」『壬生義士伝』は、その問いに一点の曇りもない瞳で答えられる男の物語だ。彼の短くも激しい一生を知った時、あなたは驚きのあまり言葉をなくすかもしれない。 その男、名は吉村貫一郎。幕末の混乱期に、尊皇攘夷の名のもと、京都府中守護の名目で結成された新選組の隊士である。幕府の力が弱まるにつれ、明日をも知れない運命に翻弄される隊士たちの中で、貫一郎はただ一人、異彩を放っていた。名誉を重んじ、死を恐れない武士の世界において、彼は生き残りたいと熱望し、金銭を得るために戦った。全ては故郷の妻と子供たちを守るためだった。大義名分、権力、名誉。そんなものはどうでもよかった。愚直なまでに「愛する者のために生きる」。家族だけではない。友、仲間、心を通わせた相手のために貫一郎は生き抜いた。やがて「守銭奴」と彼をさげすんでいた隊士も気づき始める。この男の「義」は、「人としての愛」なのだと。波瀾の運命をたどりながらも、この見事なまでに純粋な生き方と出会う時、私たちはただ「まっすぐに泣く」ことでしか、この感動を表現することはできない。 』

【あらすじ】、、、、幕末の京都の片隅、壬生で産声を上げた新選組は、表向きには得意絶頂だったが、内部では崩壊が始まっていた。倒幕勢力が日に日に力を増し、新選組も各々の思惑に揺れていた。局長の近藤勇も一目置く斎藤一(佐藤浩市)は、皮肉な目でそんな状況を眺めていた。 ある日、ひときわ腕の立つ男が入隊する。盛岡の南部藩出身の吉村貫一郎(中井貴一)だった。純朴な外見に似合わず、その腕前は何人も人を斬ってきたものだった。斎藤は、新入隊士歓迎の席で、お国自慢を始める貫一郎にうんざりし、詰所への帰り道でいきなり斬りつける。斎藤は本気だったが、「死ぬわけにはいかぬ!」と叫ぶ貫一郎に気をそがれ、「腕試しだ」とごまかす。いつ死んでもいい斎藤には、「死にたくないから人を斬ります」と言う貫一郎が全く理解できなかったのだ。さらに貫一郎の侍らしからぬ一面があらわになる。隊規違反で切腹する隊士の介錯した貫一郎は、刃こぼれが生じたからとお清め代の倍額を要求したのだ。貫一郎が金にこだわるのは、家族に仕送りするためだった。東北地方は長い飢饉に苦しみ、藩校の助教を務めるほど優秀だが、所詮身分は下級武士に過ぎない貫一郎もまた、貧困にあえいでいた。3人目の子供を身ごもり、入水自殺を図る妻のしづ(夏川結衣)を止めた時、貫一郎は脱藩して自分の剣で稼ぐことを決意。幼なじみで組頭の大野次郎右衛門(三宅裕司)の止めるのも聞かず、盛岡を後にした。流れ流れて新選組に落ち着いた貫一郎はしかし、もう一度、盛岡の美しい山を眺め、愛しいしづと子供たちをその手で抱きしめることだけが望みだった。 まさに水と油の斎藤と貫一郎だったが、貫一郎は斎藤の氷のような心の奥にある温かさに触れる。斎藤は吉原から身請けした身寄りのない女、ぬい(中谷美紀)と暮らしていた。貫一郎にぬいを「醜女」だと紹介する斎藤の眼差しには、思いやりと愛情があふれていた。
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2003年2月25日 朝霧
0700起床、熱い珈琲と煙草で覚醒し散歩に出た。乳白色の朝霧が日射しを受けて柔らかに揺らいでいた。この町に住んで初めて見る景色、春を待つ北国のように凛とした匂いだった。ランドセルを右左に揺らしながら学校に向かう赤いほっぺの女の子が元気だ。コートの襟をきっかり締め、白い息を吐き、寒さに耐えて駅に向かう人たちが眩しい。どうか、暫時の放蕩休息を諒とされたい、いずれ私も戦いの場に赴く身。来年の今頃は私もコートの襟を立て、あなた達と同じように駅に向かう道を急いでいることだろう。今は、健康管理こそ暮らしの要諦と心得て朝夕のトレーニングに励む身である。

音楽が、文字が、映像が、生活に溢れている。余勢を駆って「壬生義士伝」を観て来よう。平日だからガラガラだぞ。泣き顔見られないから、その方がいい。義父も誘おうかと思ったが、ちょっと照れ臭い。


2003年2月24日 春の兆し
一日中、霙まじりの雪模様だった。午前中は木蓮の指導でMDのお勉強。NHK FMの番組を録音した。録音レベルも自動設定というので楽ちん楽ちん。番組表も仔細に検索できる。実に便利な時代になったものだと感心してしまった。
午後は4時までかかって「壬生義士伝」下巻まで一気に読了した。またしても、浅田次郎にしてやられちまったぜい。この上、映画まで観た日にゃどうなることか。


2003年2月23日 駅弁
ヨーカドーで「富山の鱒寿司」「奈良の柿の葉寿司」を買ってきた。柿の葉寿司は昼食に、鱒寿司は明日の昼のお楽しみに。居ながらにして各地の駅弁が食べられるというのもいいものだ。駅弁を言うなら北海道厚岸の「牡蠣弁当」が一押し。霧多布岬の潮風に吹かれながら食べた味が忘れられない。もっとも似て非なるもの多いから銘柄、制作場所を調べて買ったほうがいいようだ。富山の鱒寿司は義父の好物というので一個届けに行った。
今日も(^o^)マークが並んだ。この調子で月末まで行けばリズムが刻めるだろう。木蓮の叱咤に励まされて「継続」することができた。感謝。継続できた理由は他にもある。「音楽」を聴きながら歩くスタイルを身につけたからだ。あらゆるジャンルの音を聴いているのだが、各放送局の傾向が大体判ってきたので放送番組を仔細に調べてMDに録音することを覚えようと思う。そうすれば更に楽しくWALKINGすることができる。食事の後、木蓮から「はい、どうぞ」とMD録音の分厚いマニュアルを渡された。「自分でおやりなさい!」というのだ。チラチラとページをめくってみたのだが摩訶不思議な言葉が一杯並んでいるので目眩がしてしまった。意味不明のボタンが一杯ついていて手に負えるかと不安になった。そういえば洗濯機、お釜、レンジの使い方も私は正確には知らない。これではいけないと反省することしきりだった。義父は67歳にして立派に「主夫」をしているそうだ。極楽とんぼ、ましてや時間がたっぷりある宿六の私に「主夫」ができない訳がない。アウトドアの技術も、暮らしの技術も本末究竟して等しいはず。少しでもいいから教えて貰おうかと殊勝な気持ち。亡きおふくろから教わった生活の知恵は脳細胞の何処かに刻まれているはずだし、早晩思い出すことだろう。裁縫なんぞもやらされたゾ。


2003年2月22日 ショーシャンクの空に
木蓮お勧めの映画をレンタルして来た。まったくの先入観なしに見て深い感銘を受けた。モーツアルトの「フィガロの結婚」が流れるシーン、刑務所という閉塞された状況からの魂の解放をイメージさせた。寡黙ではあるけれど「向上し続ける」類い希な精神性を持つ主人公の「希望」への執念は19年に及ぶ「継続」で見事に結実する。約束の場所には一通の手紙と、そこに行くまでの交通費が埋められていた。過酷な環境の下で培った友情によって救われる老囚人の笑顔、コバルトブルーの海を背景にしたラストシーンが実に渋かった。 文句なしの★★★★★★★!
壬生義士伝、今朝2時までかかって上巻の半分。久しぶりに小説の醍醐味を味わっている。一気呵成に読むのがもったいないくらいだ。 昨日、書き上げた富士山記録を推敲作業を終える。原稿用紙に換算して20枚とは書きすぎだろう。笑。


2003年2月21日 壬生義士伝
WALKINGの帰り道、立ち寄った書店で「壬生義士伝」を立ち読みした。ある箇所に来て思わず込み上げて来る描写があった。浅田次郎のヤロー、また泣かせやがったなあ〜。気が付いたらカウンターに上下二巻を持参していた。

富士山の記録をようやく書き上げた。HPに上げるのは今週末あたりになるだろう。やっと富士山が終わった。南アルプスはどうした、駒ヶ岳は、北岳は、間岳はどうした、、。あは。いっぱい書くことがあるだろう!


2003年2月20日 スタイル
昨日、山岳会の例会に出て自分の登山スタイルが何処にあるのかを考えてしまった。「ハイキング 一般登山 重装備登山 沢登り 岩登り 岩登りゲレンデ フリークライミング 冬季登攀 スキー登山 冬山・雪山 海外登山 海外トレッキング その他」と山行種別を並べてもあまりに広範囲すぎる。最近つとに自分が座標軸とする登山形態のありように疑問を持っていた。特定の分野に特化した形がいいのか広範囲にフリーにしておいた方がいいいのか悩んでもいた。選択肢はそれほど広くは取れない「山は逃げる」年代に入ってもいる。残された時間を逆算してみれば自ずから明らかな事とは言えまいか。
3月号「山と渓谷」は深田久弥特集を組んでいた。「山へ行き、何をしてくる、山へ行き、みしみし歩き水を飲んでくる」というコピーがあり、思わずメモをしてしまったのだが「そういうシンプルな原点でいいなあ」としみじみ思っている自分がいた。挿絵写真の柴山潟から撮影した白山を、私も同じ位置から眺め暮らした時代を持っている。(白山!改めてあの山に登ってみたい。今年の夏は是非とも白山に登りたいと思った。)
深田久弥は次のようにも書いている「先人に思いをはせながら初めて辿り着いたなんの造営物もない静かな山頂で広闊とした山並みを倦かず眺め心を無にした時間を楽しむ」と。「そうなのだ、衣を脱いで山頂に立つという気持ちでいいのだ」迷いの心に一条の道筋が見えたような気がした。


2003年2月19日 職安詣
恒例の職安詣と併せて確定申告の書類を貰って来た。還付金は車の車検代に消える気配。笑。津田沼駅から北習志野までを歩き通した。音楽を聴きながらの歩きだったので少しも退屈しなかった。前を行く元気な小学生のランドセルが右左に揺れて可愛かった。後ろから変なオジサンが歩いて来ると怪訝がられはしなかったか。あは。

1930より別の山岳会の例会に参加した。書類、会報などもしっかり作成されてある。山岳会としての基盤が既に完成されているという印象を持つ。参加を決めている千葉県山岳連盟主催の第5期登山教室の話も出た。山岳会もいろいろあるようだ。


2003年2月18日 五十肩
右肩をあげる時に痛みが走る。木蓮の言葉によれば「五十肩」であると言う。ほほう〜、五十肩ね〜。いずれ治るそうだが肩こりを感じないのに五十肩になるとはね〜。2月のトレーニングは順調に仕上がっている。ニコニコマークがずらり並んで気持ちがいいね〜。2月は基礎体力を養う為にWALKINGに徹している。敢えて「走ること」を我慢している。低気圧通過で雪予報が出ていたが気配なし。


2003年2月17日 WINDOWS
WINDOWSのシステム設定で一日暮れた。工場出荷状態に戻して最初からシステム入れ直しを2回繰り返し何とか「カン」どころを把握することができた。この際、不要なプログラムはカットして「登山専用マシン」として使うことにした。


2003年2月16日 青山至るところに
一日中、雨の日曜日。叔父から正月に出た「墓」の件で電話があった。「本家に打診したところ快諾したから相談してみたらどうだ」と。おふくろの墓を両親の傍に埋めてやることに異論はないが、しかしながら、九州ではいかにも遠い!三代と続かない墓守の現実を踏まえると不肖の息子としては心が揺れる。最終的には分骨という手も考えなくてはならないようだ。青山至るところにあり、とはいうけれど難しい判断をしなくてはならないなあ。ニューヨークテロ事件、瓦礫の下に埋まったまま骨さえ見つからない人々もいる。阪神淡路大震災で形見の一片すら見つからない人々もいる。異国にあって生別も不明のままに、その帰りをひたすら待ち続け無念の内に生涯を終えた人々もいる。私にあっては「死んだら土に還る」その覚悟がまだまだ薄いようだ。


2003年2月15日 Radio
散歩のお供にSONY製の通勤ラジオを買ってきた。全国の放送局が地域別にあらかじめプリセット。充電式。イヤホンが格納できる。ダイヤルがずれないようにロックができる。テレビも1〜12まで聴くことができる。サテライトスタジオが近くにあれば手動式チューナーでは難しい微妙な周波数訂正も可能になる。ラジオも随分進歩しているものと、改めて驚いてしまった。そう言えば木蓮の玉手箱には「MD」が眠っているはずと確認したところ、それどころか「通勤ラジオ」「WALKMAN」まであったのに二度驚いた。道理で音楽に造詣が深い訳だ。「MD」はロングのクラシックを聴くのに適しているし十分に活用できるはず。電池を充電してスタンバイさせたことは言うまでもない。


2003年2月14日 吉川英治記念館
青梅街道沿いにある「吉川英治記念館」を訪ねた。その名前と場所は昔から知っていた。はるか昔、授業中に耽溺した懐かしい作家の一人。2時間半さまざまな資料を精読したら、それだけで満足してしまい奥多摩の山に向かう気持ちが雲散霧消してしまった。吉川英治と一日語らって来たようなものだ。まあ、そういうことがあってもいいだろう。雄渾な筆致で描かれた「宮本武蔵」「新・平家物語」は現代にあっても少しも色褪せない。奥多摩の「もえぎの湯」に浸かってのんびりしたら、すっかり里心がついてしまった。

村長の挨拶文は吉川英治の在りし日の姿を彷彿とさせてくれる。

「先生と旧吉野村」 終戦の前年、昭和19年3月、吉川先生は10年来住み慣れた東京赤坂から、ご家族とともに当時の西多摩郡吉野村へ疎開されました。多摩丘陵に囲まれた静かな山村で、先生はここで「親書太閤記」を書きつづられていましたが終戦とともに筆を絶たれ一村民となって晴耕雨読の毎日を送られました。先生が意欲的に執筆に取りかかられたのはそれから3年後。昭和23年9月に「高山右近」を、つづいて先生の晩年の代表作とまで言われる大作「新・平家物語」を起稿されました。昭和25年4月、先生が58歳を迎えられた年であります。こうして終戦後の激動期を10年の間、素朴な村人たちと交流されたことは、おそらく先生の生涯で忘れられない思い出であったと考えられます。昭和28年8月、先生ご一家が吉野村を去るにあたり村人との「お別れの会」が吉川家の主催で開かれましたが、訣別を惜しんで集まった村人たちの数は実に300人にも及んだのであります。先生ご一家が村人たちから如何に敬愛され慕われていたかがこの一事でもわかります。
その後、吉野村は合併され青梅市となりましたが先生は青梅市の名誉市民となられ、また市役所にかかげられた「青梅市役所」の文字は先生の揮毫になるものです。旧吉川邸は、青梅市の北西、多摩川の清流に沿い、梅園に囲まれた約6000平方メートル(約2000坪)の敷地です。吉川先生がご執筆された書斎などが当時のまま管理されており、訪れる吉川ファンは後を絶たず、先生の生前の面影を偲んでおります。吉川英治記念館は、この邸内の景観を残したまま、その小高い一隅に建設されたものです。


2003年2月13日 木漏れ日
1200〜1400に時間を変えて散歩してみた。木漏れ日の射す暖かな和みの一日を過ごすことができた。奥多摩に向かう山支度を午後から整えた。えへ。


2003年2月12日 梅と桜
あちこちで梅の便りを聞くようになった。原産は中国だが本家では梅はそれほど珍しい植物ではなく、梅の実も日本ほどには珍重されていない。日本の国花を決める時に「梅にするか桜するか」で揉めたほど馴染みの深い花と聞いた。早春を告げる花、百花の先駆けの花とも言われる。あちこちの庭に可愛くて香しい梅が一斉に咲きほころぶ季節となった。しばらくは寒さが続くようだが自然界の植物、動物たちは既に動き始めていることだろう。生命のリズムには一瞬の停滞もないということだ。



2003年2月11日 独活
登山用シャツの丈詰めを義母に依頼したところ心よく引き受けていただくことができた。腕の長さが標準下体の寸法なので苦労することが多い。とりあえず秋冬シャツと長袖下着をお願いした。木蓮を実家に残し高根台公園をトレーニング散歩しながら帰宅した。アイゼンで突き刺した手が僅かに膿を持って腫れていた。きちんと消毒しておけば良かった。午後から咳が頻繁に出るようになった。気管支炎を疑う。トローチとうがい薬を今日から始めることにする。独活の味噌合えと鮭ご飯が食卓に並んだ。義母の手作り、これもまた春の味というべきだろう。


2003年2月10日 ストレッチトレーニング
0730起床した。ウエストポーチに200mlのテルモスと煙草、ラジオと携帯を入れて高根台公園に向かった。昨日の余韻が身体のあちこちに残っていた。 0900食事を済ませてからザックの整理にかかった。雪山の洗礼を受けた道具全てを畳に広げて洗濯、乾燥を頼んだ。使ったモノ、使わなかったモノをメモする作業を丹念に行った。登山口時点での乾燥重量は、ボッカの「うどん玉2個」を含めると18Kg前後あったはず。寄付してきた食材を含めて、ある意味では不要なモノが多かった。平素、軽量化の必要性を自覚しながらも達成できない自分がいた。徹底した軽量化の意味を教わった研修でもあった。今一度、道具を点検しなおさなくてはならないと肝に命じていた。作業は午後2時までかかった。まだまだ余地があると感じた。研修記録に着手するも、記録メモを取るのが精一杯だった。メモ一行、写真一葉取る余裕こそなかったものの身体が覚えているシーンを再現させるのは難しいことではない。明日から腰を入れて記録を書くことにしよう。

午後から雨が降り始めた。春の気配だ。


2003年2月6日 合宿前夜
いよいよ明日は富士山麓佐藤小屋。食料は木蓮に頼み、該当の25000地形図を求めに津田沼に出た。地図を作法通りに折り束ねる作業も久しぶりのこと。ザック最終点検完了。早朝の電車で東京駅に向かうことになる。出勤ラッシュと遭遇するのはかなわないなあ。
昨日からトレーニングのお供にFMラジオが活躍している。ヘッドフォンから流れる圧倒的な音量が素晴らしい。ジャンルを問わず、入って来る音はとりあえず全部聴いてみよう。楽しく歩いたおかげで(^o^)マークが5個並んだ。


2003年2月5日 新ホームグラウンド
0730、家の前にある北習志野公園を初めて歩いた。鬱蒼と茂る松林が不気味に映っていたのだが、同好の士の後を追随して歩いてみたらコンクリートの少ない変化に富んだ素晴らしいコースだった。小さな丘、階段などもあって、サーキットトレーニングができそう。(^o^)マークが4個並んだ。久しぶりの四つ星だ。
1930より山岳会の例会に出る。今日は天気図の取り方を学んだ。「石垣島。風向き北東、風力3、にわか雨、1021ヘクトパスカル、気温17度」次から次に流れる情報を天気図に記録していかなくてはならないのだ。初めてのことでもあり、メモするだけで精一杯だった。何度も聴いて慣れるしかないだろう。天気図が描けて読めるようになるのはいつの日か、、。ふ〜。


2003年2月4日 立春
午後から小雪が舞ってきた。いまが一番寒い時。 駅前露天で林檎を一個買った。無性にリンゴが食べたかったのだ。(^o^)マーク3個並んだ。始まったばかりだが意外と走れるので驚いている。そろそろ脚の筋肉が張ってきた。ここを越えないと次のステップに移れない!


2003年2月3日 富士の高嶺
登山教室参加の準備を終えた。7日12時現地集合。富士吉田駅までの経路を調べた。チーズとチョコレートを揃えなくてはいけない。


2003年2月2日 トレーニング再開!
プロ野球キャンプインに倣って本格的なトレーニングを再開した。ここ数ヶ月の体たらくにより遂に貯金が底をついてきた。(>_<)7日から富士山合宿、12日例会、22日は日立市で岩登りに参加。その間隙を縫って奥多摩と目白押しのプランが並ぶ。久しぶりに走ったので最後のダッシュで脚がついていかなかった。う〜む、何ということだ。(^^;)



2003年2月1日 鮭と納豆
しろりん様、ご飯とみそ汁、鮭と納豆の朝食は如何でしたか。感謝の心なしに箸をつけるものではないのだよ。花に嵐の喩えもある、後10年も生きれば少しは人生も見えてくるだろうさ。



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