山ダイアリー
2003年7月 

2003年7月31日 戦い済んで日が暮れて
0630起床。朝食後、気合を入れてパッキングを完了した。本日、22時のバスで白馬町に向かう身とは、とても思えないほど気が抜けてしまっている。空襲を受けた被災地に佇む民のように呆然として落ち着かない。今日から隣の階段で新しい作業が始まった。削岩機が一日中、これでもかと轟き渡った。経験した者だけが判る阿鼻叫喚、悪夢の八日間だった。白馬に向かっている間に、木蓮は普段通りの日常生活を取り戻すべく片付けを行うそうだ。極楽トンボ一人、山に遊んで来るなんて、悪いね〜。


2003年7月30日 工事最終日
梅雨、最後の雨。トイレの窓の取替えから工事が始まった。前の住人が鳥避けに設置した網戸の撤去が大変だった。結局、窓ガラスを壊して内側から外すことになった。集中給湯システムを採用する為の釜も運び込まれた。洗濯機のパンも新調。34年前、この団地を設計した時代には既に洗濯機は巷間に広がっていたはず。洗濯水は洗面所から引き込み、排水はお風呂場にホースを引き込んでやるという無茶苦茶な発想だった。当時の庶民の生活感覚は、そういうものだったのだ。

デメリットばかりではない。すべての部屋、トイレ、台所空間に窓があるという構想は、最新式の効率追及のウナギ寝床式マンションは逆立ちしても真似できない。この家を選出す時の基準は「駅に近いこと」「商店・病院・文化などの生活環境が整っていること」「リビング側三室すべてが南」を向いているということだった。同じ価格帯で郊外を探せば、更に設備環境のいいところはあったのだが、いずれも車・バスを使う前提だった。ライフライン基礎工事があることを承知の上で判断したのだが、大正解であったことを半年の暮らしで十分に味わった。駅に近いこと、生活環境が充実していることのメリットは大きい。

この団地界隈の生活圏ができあがるまでに34年の歳月が流れ、これまでに膨大な社会資本が投入された。その甲斐あって世代交代もスムースに運んだようだ。西東京・多摩ニュータウンなどに代表される郊外団地の幾つかは当初の計画通りの社会資本が投入されないまま衰退していく気配を漂わせている。

郵便受けに毎日のように投函される「当マンション限定で、ご希望の方がいらっしゃいます!是非お譲り下さい!」のチラシは、この地域が未だに活気ある場所として認知されていることの証なのだろう。息子、娘の為に、財産運用のひとつとして、空家のまま放置してある家屋が多いことに驚く。不動産屋は執拗に売却を促進させようとするのだが、肝心の物件が不足している。売りの情報が出れば、数日を経ずに引き合いがある場所なのだ。

最終のリニューアル全てが終わる8月下旬には、レトロではあるけれど二人暮らすに最適な環境ができあがる。同時に、一年に及ぶ私の仙人生活も終わりを迎えることになる。いよいよ、魏国・曹操に倣って「至弱から至強に至る戦い」を始めなくてはならない。

ところで明日の夜21時半には白馬岳に向けて出発する身なのだが、この騒動のおかげで仕度がまったく整っていない。明日は顔面蒼白になってザックのパッキングをしなくてはならない。やれやれ、である。


2003年7月29日 工事七日目
今日のメイン作業はお風呂場のタイル張り。15cm角の薄ピンク色が綺麗に貼り付けられて行った。洗面台も取り替えることで先人の生活の匂いをことごとく取り払うことになる。明日は浴槽、洗面台の取り付け、及び最終仕上で忙しい一日になりそう。もっとも、8月18日から始まる最終リニューアルまで騒動は収束しないのだが。それにしても、昨年8月から勃発した退職に伴う転居騒動で落ち着かない日々を過ごしたなあ。家を構えるというのは、ことほどさように大変なことなのだ。団地のあちらこちらからクレームが発生している気配だ。施工する側も、それはそれなりに大変なのだろう。若いカントクさんが右往左往するのも致し方ない、そういうふうにして仕事の経験を積み上げて一人前になってゆくのだ。

夕方、実家に貰い風呂。この一週間というもの、各個、お風呂の対応で大変だったことが偲ばれる。家族四人も居れば銭湯代もバカにならない。外食の数も増えて出費も嵩んだことだろう。明日30日で全ての工事が終わるのだが入浴できるのは31日からだと言う。唯一の救いは盛夏の前であったことだろう。うだるような暑さでは互いに逃げ場がない。

週末一日から梅雨明けの気配。いきなり33℃を越える暑さが続けば体調もおかしくなろうというもの。白馬岳へ向かう支度を整えなくてはならないのだが、このリニューアル騒動で集中力が削がれてしまっていた。新リーダーから「食材の手配」についてメールが届いた。「三分間餅」「トマト・キュウリ」の量が不明だから大至急教えて下さいとメールした。普通なら、もっと早めに動いているはずのことだ。笑。


2003年7月28日 工事六日目
昨日までの騒擾とは打って変わった静かな一日。左官屋、タイル屋さんが物静かに出入りし、それぞれの仕事をひっそりかんとやっていた。破壊に始まる荒療治の時期から仕上行程に移った。朝、一番で監督を捕捉し、昨日の工事について「素朴かつ鋭利な質問」を浴びせた。いちいち御尤も、と頷いた若いカントクさんは恐縮しながら指摘の事柄に対して善処したのである。木蓮のオヤジさんの精緻な指摘がなければ気がつかなかったことばかり。あの父にして、この娘、、。よく似た親子だなあと感慨深し。

7月末で住まいを退去すると言っていた娘からの連絡いっこうなし。既に親の手を離れ、天馬空をゆくの自在さで日々を過ごしているのだろう。怖いものがあるとすれば、それは母親の一言だけ。怖いものがあるというのはいいことだ。

白馬岳の登山計画が発表された。所属の会への計画書は別途提出となっている。
7月31日 集合
8月1日  猿倉0630〜白馬尻〜大雪渓〜白馬岳村営キャンプ場1400 幕営
8月2日  白馬岳山頂〜白馬大池キャンプ場 集中講義
8月3日  大池〜蓮華温泉〜解散


2003年7月27日 蝉の声いまだ。
朝7時起床。梅雨明けを思わせる青空が広がっている。吹き込む風も爽やかだ。ようやく夏到来の兆しか。

今妻がベランダで楽しそうに土いじりをしていた。明け方、私のいびきと歯軋りで目が覚めたそうだ。蹴っても抓(つね)っても、鼾と歯軋りは止まなかったから諦めて起きたそうだ。(それは、ご迷惑をおかけしました。)やっぱり、リニューアル大工事のストレスが関係しているのではないかしらん。(ここ一週間ほど、ライフラインのリニューアル突貫工事をやらせているのです)最近、熟睡できるようになった。一時期の眠りの浅さが嘘のよう。工事対応の為に、朝早く起床するようになったこと、トレーニングを継続して身体が眠りを要求していることもあるのだろう。熟睡の後の目覚めはいいものだ、、人の迷惑はさておいて、、えへ。

白馬岳に向かう部品の調達に出かける。アルファ米5袋はメンバーの二日分の夕食。一日目は五目飯、二日目は白米の構成。一袋@500円と、けっこうな値段がする。今までの経験値から判断すると、これでも量が多いような気がする。(酒ばっかり喰らって、ちっとも食べやしない)併せて防水スプレーも準備。テント、ザック、その他の防水メンテナンスも施しておかなくては。白馬岳から帰ってきたら、各部品のメンテナンスを丁寧にしなくては。

宮部みゆき「平成お徒歩日記」文庫版を郵便局のふれあい文庫から失敬してきた。(はっきり書けば泥棒)幾人の手垢にまみれて表紙がヨレヨレになっている。一読、素読して「面白い!」と思った。題材が江戸の町を徘徊(WALKING)するだから私の嗜好に合っている。市中引き回しの上、獄門コース、四十七士が本懐を遂げて泉岳寺に至るコースを歩くという設定になっている。なにより切れ味のいい文章がいい。畳に寝っころがって、午睡をする「なぐさみ草子」に適している。つい涎を垂らして寝てしまった次第。


2003年7月26日 工事五日目
缶詰状態になって五日目。そろそろストレスが溜まってきた。日を追うごとに補修作業の全貌が明らかになってきた。二度の脱着作業により、システムキッチンの開閉がスムーズにいかなくなった。専門業者を呼ぶことで収拾を図って貰った。コンセントと水道管の位置の修正作業で逆切れする業者(20歳前後の若いアンチャン)には驚いた。それにしても乱暴な作業をするものだ。

五階住人が「個人的な補修工事」の承認書の印鑑を求めに来た。「いや乱暴ですね〜、凄い工事です!」「廊下、5年ほど前にリニューアルしたんですが、もうボコボコでひどい状態になっていまして、もう一度やり直さなくてはなりません」云々。平穏な生活をしている最中、土足で踏み込まれたような感覚なのだろう。事実、簡単な養生だけで、いろんな業者が入れ替わり土足で踏み込んで来る。風のように来て風のように去ってゆく、のである。

東北・宮城県で大きな地震があった。以下、記録の抜粋。

震度6強と震度6弱の地震が続いた宮城県北部で26日午後4時56分ごろ、強い地震があり、河南町で震度6弱、涌谷、南郷町で震度5強、桃生町で震度5弱を観測した。気象庁によると、統計が残っている1927年以降、同じ日に震度6の地震が3回あったのは初めて。降雨による土砂崩れの恐れもあり、関係機関は警戒を呼び掛けている。午後の地震の震源地は県北部で、震源の深さは約10キロ。マグニチュード(M)は5・3と推定される。3回の地震とも震源は地表のたわみ「旭山撓曲(とうきょく)」付近とみられる。気象庁は、午後4時56分に発生した震度6弱の地震は、同日朝に起きた震度6強の余震との見方を発表した。群発地震ではないという。警察庁によると、負傷者は421人になり、うち27人が重傷。県のまとめでは、住宅や公共施設480棟が損壊した。県は南郷、矢本、鳴瀬、河南、鹿島台の5町に災害救助法の適用を決めた。宮城県河南町によると、午後5時前の地震で、同町前谷地の江合川堤防の土砂が崩れ、決壊の恐れがあるという。午後2時49分と3時41分に震度4を観測するなど、余震は午後5時までに約200回に達した。(共同通信)


2003年7月25日 内科往来結果
内科血液データ。先月より0.1ポイント悪化していた。原因は「食べすぎと運動不足」と指摘された。落ち込むことはない。いままでの経験値から推して、8月末までには十分に合格ラインに乗せることができる。昨日から始めたトレーニングと日常生活(もっと、身体を動かすことだ。)、食事制限で何とかなる。朝、昼、夜のリズム を、少なくともこの一ヶ月間だけは斎戒沐浴してガンバラネバ。
1600から薬円台公園でトレーニング。夕食の後で貰い風呂に向かった。

リニューアル工事四日目。初日から始まった「破壊活動」は収束した模様。無残に壊された床下には水、ガス管が交錯し、浴室は幾重にも施された防水加工と新しい浴槽を入れる下準備等で牢獄を思わせる暗さになっている。集中給湯方式を採用するために壁を壊し、その隙間にガス管、水、湯の配管を埋め込む仕様。抜本的な水周りの工事だから大仰になるのも致し方ない。本日、お風呂場にジャロジー式の窓が嵌め込まれた。浴室の天井も新しく葺き返られた。30日には全ての工事が終了する予定。これが終わっても、リニューアル補修工事が8月後半から予定されている。一年の間に三回もリニューアルをすることになるとはね〜。


2003年7月24日 トレーニングを再開
内科往来。7月サボっていたトレーニングを今日から開始。「泥縄式」ではあるが、これがありのまま。笑。1時間半も走り、歩くと、血糖値が下がってくる。ポケットに忍ばせた飴と公園の水がありがたい。薬円台公園7周、往復コースで12000歩のカウントだった。奥秩父の貯金があったから軽くメニューをこなすことができたのだろう。これを契機に頑張ろう、、。夏は鍛えの季節なのだから。

家に戻る頃には、お腹が空いてグーっと鳴る。この感覚が実は大事なことなのではあるまいか。シャワーが使えないので、木蓮の実家に今日も貰い風呂。ついでに夕食も。それでは恐縮だから、米(秋田産・あきた小町)を持参することにした。身体に悪いものほど美味しいのは、どうも困ったことだ。茄子の焼き物、肉少々の野菜天ぷらを四個も食べてしまった。止めは食後の冷たいアイスクリームときた。

工事三日目。ようやく削岩機の音も沈静化してきた。今日は床下に配管を通す作業がメイン。システムバスは完成までに八日間かかるそうだ。それぞれの作業の担当者が入れ替わり立ち代わり出入りする。自分の持ち場、仕事をしっかり把握している動きをするので感心してしまった。わずか八日間でライフラインを交換し、さらにオプション工事まで処理しなくてはならない。


2003年7月23日 工事2日め
朝方一番で管理事務所に電話を入れた。昨日の工事概要について留意いただきたいことを述べた。生活をしながら同時進行の工事であること、更には養生処理についても格段の配慮をして欲しい旨を伝えた。リフォームを既に施した箇所に瑕疵などが発生した場合の対処についても踏み込んだ発言をした。昨日とはうってかわった丁寧な対応となった。頂門の一針、「口うるさい電話」こそが企業の質をあげてゆくはずだ。

今日も一日缶詰状態で過ごした。四日目までは騒音が続く行程になっている。必ず住まいする人が傍にいることが施工の条件となっているから出かけるわけにもいかない。一棟から始まった工事の流れは、さすがに場数を踏んだだけに実にスピード感がある。各々の工事担当者が一定のリズムでもって処理をこなしていく。壁をはつるもの、コンクリートを流し込むもの、管を切断、長さを測り、ねじ切りを行って接続するもの、上五階から下一階まで管を接続しないと排水ができない。限られた時間の枠で、それらの行程をこなさなければいけない。一日の終わりには「最低限の生活・台所とトイレの使用」ができるように戻さなくてはならない規約がある。生活のリズムが完全に破綻してしまった。部屋に塵埃が浮遊して、はなはだ気持ちが悪い。綺麗好きの木蓮には耐えがたい環境ではあるまいか。

暦では大暑となっているが、実に肌寒い一日であった。梅雨明けは来週頭までずれこむ予報。夕刻、木蓮の実家に貰い風呂。暑い夏場であれば毎日でも行水したいところだが、存外に涼しいので助かる。工事終了の30日前後から本格的な暑さとなる気配。


2003年7月22日 いよいよ工事開始
築34年、オンボロ・レトロ空間の最終リニューアル工事が遂に始まった。ライフラインの水とガス配管・交換作業を基本にして各家の要望に応じたオプション工事を、一単位(10軒)、わずか8日間で完成させるという一大プロジェクトである。4月、一棟から始まった工事が遂に6棟に及んできたという訳だ。別棟の工事の進展を横目で眺めながら、騒乱の日々を予想して腰の据わらぬ日々を過ごしてきた。早く始まらないかと、始まれば、いつかは終わるのだから。

0900、数人の男たちが現れ、簡単な養生を壁に施す作業を開始した。削岩機でコンクリートの壁を破壊する作業から、八日間に及ぶ騒乱劇が始まった。破壊する轟音が四日間続くことになる。家にあっては威勢のよい木蓮も、外部の人間には内弁慶、蚤の心臓ぶりを発揮する。次から次に人が現れ、課された仕事、ルーチン化された仕事を為して姿を消していくリズムになっている。いささか乱暴、粗雑な人たちであったので木蓮の心が休まらない。あまりに音が凄いので、私は隣の部屋で眠ることにした。轟音の最中であっても、意外なことだが人は眠れる。音に特別の意味がこめられているわけではないから、単純なリズムとして脳細胞が処理すれば深い眠りに入ることもできる。

1時間ほど眠っただろうか。目覚めると木蓮が誰かとパソコン相手に電話をしている。相手というのは、Kさんであった。またもやウイルス騒動が勃発して右往左往しているらしいのだ。遂には電話では埒が空かなくなってお迎えの車が来ることになった。大脱走という訳だ。残された私は一人で轟音、人の往来の騒然とした渦中に留まっていた。夕方5時となり、さすがに静かになりはしたが、塵埃、部屋に満ちて、そぞろ落ち着かない時間を過ごしたことだった。養生を剥がし、気持ち程度の掃き掃除と拭き掃除をして立ち去っていった。やっつけ仕事といってしまえばそれまでだが、あまりに粗雑な掃除ぶりであったので、さすが温厚な私も切れてしまった。自ら雑巾を絞り、粉塵溜まった廊下を拭いて廻った。

19時半になっても帰宅しない木蓮の身を心配し(その実、今夜のご飯のことなどが気になり)Kさん宅に電話を入れた。どうやら、娘さんの質問に応えているらしい。(おお、おれの晩飯が更に遠くなってしまうなどと)娘さんの質問なら応えなくてはならないだろう。

1950頃、ようやくご帰宅となった。2000の大奥をビデオ予約してから粗食の夕餉を囲んだ。インスタント焼きそばと解凍したおにぎりが並んだ。やっぱり尋常な一日ではなかったような。笑。


2003年7月21日 奥秩父山行
豪雨により撤退。


2003年7月20日 奥秩父山行
出発。


2003年7月18日 ディスクロージャー
木蓮が作った予算表によれば昨年九月に職を離れていらい散財した予算、登山学校修了までに使う予算の概要は次の通り。

02年9月〜03年4月 500000円
03年5月   20143円 5月17日〜18日 谷川岳、他
03年6月   84220円 5月23日〜26日 九州、6月7日〜8日雲取山、他
03年7月   45002円 7月6日 救急法講義、アマチュア無線講義、他

03年8月   90000円 7月21日〜26日奥秩父山行、沢道具購入、白馬岳山行、奥多摩沢山行
03年9月   30000円 9月6日〜7日 藤坂ロックガーデン(岩講習)
03年10月  50000円 10月4日〜5日 八ヶ岳山行 18日〜19日山岳会主催山行
03年11月  30000円 11月7日〜8日 谷川岳山行
03年12月  30000円 12月13日〜14日 安達太良山山行
03年8月〜12月合計    230000円 月平均 46000円

ほぼ一年という期間、「山学の基本」を学ぶために学校、山岳会に籍を置いた。総額費用は870365円となる見込み。道具代130000円を除いた月平均は53000円。こうして数字に出してみると、存外山も、お金のかかる遊びなのだと改めて思う。人が動けば、それにともなってお金も動く。蟄居閉門なら食費だけで済むのだが生きている以上はそういうわけにもいかない。まさしく極楽トンボの放蕩と言われても仕方がない。木蓮が眉を顰めるのも無理からぬことだ。失業中の身、数字を眺めていると限りなく鬱になってしまうなあ。「不自由を常と思へば不足なし」と書いた裕次郎の気持ちにならなければいけないのかも。

台所の壁の色を決める作業。見本の色を並べて「ああでもない、こうでもない」と騒いだ一日。どの色を採っても無難だから逆に選定が難しい。神経衰弱ゲームをやっているようなもの。


2003年7月17日 不自由を常と思えば
登山学校、山岳会の資料整理を行う。課題満載、学ぶことが実に多い。しっかり記録しておかねばもったいない。蛇がのたくっているように無造作に書き込まれた文字をなぞりながら、漏れている部分はないのかを探し出している。大方のことは書いてあるのだが、そのときどきに感じていたこと、わずか数行の吐息もみつけだそうとしている。

リニューアル作業大詰めを迎える。午前中、鶴べえさん来訪(例によって遅刻常習犯なのだが)し仕上げの見積もりを置いていった。午後、普請総括会社からダンボールが二個届いた。小物整理にお使いくださいとの事。いよいよ来週22日から騒乱状態に突入する訳だ。コンクリートを削岩する轟音、ライフラインの水周り、お風呂、洗面台、床フローリング、洗濯機配管と盛り沢山のメニューが全て落ち着くのは8月下旬だろう。お風呂が整う7月末までは木蓮の実家に貰い風呂をお願いしてある。お風呂も一日おきで我慢しなくてはならない。昔の生活を思えば何でもないこと。

 北海道小樽市の石原裕次郎記念館で、故人が小学校時代に書いた習字の作品を見たことがある。「不自由を常と思へば不足なし」…。朱筆で「優」と添えられていた◆裕次郎さんは十歳で終戦を迎えた。一九五六年(昭和三十一年)「太陽の季節」で映画界にデビューする。経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した年である◆戦中戦後の物不足の辛抱を半紙に綴(つづ)った少年がやがて、伸びやかな四肢で育ち盛りの日本経済を体現していく。昭和という時代の振幅を映す人生でもあったろう。五十二歳で亡くなって今年は十七回忌、きょうが命日にあたる◆四月二十九日を「昭和の日」とする祝日法改正案が、きのうの衆院内閣委員会で可決された。野党の民主党、自由党も賛成した。振幅大きく揺れつづけ、にがい教訓も若い希望も汲(く)み取れる激動の昭和に、顧みる意義を認めたのだろう◆危篤になった裕次郎さんの病室の窓からは、プールのにぎわいが遠く望めたという。兄慎太郎さんが書いた「わが人生の時の時」(新潮社)に、「夏という私たち兄弟にとっては他人事ならぬ季節」に逝く弟を、静かに見送る場面があった◆ふたつの原爆忌から終戦記念日につづく夏は、多くの日本人にとっても「他人事ならぬ季節」に違いない。折に触れて昭和を思い出させてくれる人である。
(2003/7/17/09:05 読売新聞 無断転載禁止)


2003年7月16日 例会
20時より津田沼公民館にて例会参加。夏休みの登山計画の発表多数有り。みんなの熱気で溢れていた。毎週のように山に向かっているTさんは、とても元気だ。一見おとなしそうなJさんは、骨の髄まで「山女」という印象。同期のTさんは「常念岳」のことで頭がいっぱい。沢を企画したOさんは、ちょっとしょぼくれていて酒臭いけど山が好きなオジサンなのだろう。沢に向かう道具を準備しなくてはいけないらしい。詳しいことは来月の例会で教えてくれるそうだ。いい意味で刺激を受けることができる。山岳会に所属したことは正解だったなあ。木蓮は費用捻出で頭を痛めるのだが、ちゃんと仕事をして稼ぐから「ごめんなさい」である。山に向かう気力があるうちは健康でいられる。まだまだくたばる訳にはいかないからね〜。基本を学んだら全部フィードバックして、そうなったら一緒にいろんな山に遊ぼうよ。いまは勉強中の身だから偉そうな事は言えません。無線免許の費用捻出してくれてありがとう。8月30日〜31日の奥多摩での沢登り、10月18日〜19日の新人歓迎山行にエントリーすることになった。


2003年7月15日 図書館往来
岳人8月号は「沢」「深田久弥の百名山」特集がメインだった。8月下旬に沢山行を予定している。やっぱり夏は、3000m稜線もしくは沢が決まりだろう。沢は、いうなれば川遊びの延長なのだ。幼い頃に川遊びをした感覚を思い出せばいい。源流を辿る山旅ということになる。魚を手づかみで採り、月の夜を待って川魚一網打尽の網を投げた記憶が懐かしい。渓流の川岸、タープだけの簡単な支度、流木を集めての盛大な焚き火、沢音の奏でるハーモニーを聴きながらの野営は確かに魅力的な分野ではなかろうか。なまじの豪華絢爛、道具立てを誇示するオートキャンプなどお呼びではない深い世界がそこにある。本当の意味での野営生活を具現化できる世界なのだろう。もう一つの山の世界がそこにある。谷と沢、先輩の指導を受けて、谷の山登りを大いに味あわせていただこうと思う。
財団法人日本アマチュア無線振興協会より「案内・申込書」が届いた。来月9日・10日に連続して受講する申し込みを行った。弁当持参で巣鴨まで出張しなくてはならない。


2003年7月14日 九段下往来
小雨の中、久しぶりに九段下に出向いた。月曜日の朝、仕事の顔をしたサラリーマンたちが続々と電車に乗り込んで来る姿を見て、ちょっと溜息をついた。ネクタイを〆るのが億劫になっていることは確かだなあ。そうなればそうなったで「平然」と振舞う自分の姿が想像できるのだが。仕事の情報はマネジメント能力を活かせるとの触れ込みだった。某大手出版社が新しい仕事を立ち上げるとかで人を求めているとの事。社名は公表できない事情があるらしい。新しい仕事となるとストレスも重なるし休みも思うように取れない恨みもある。総合職を目指す訳ではないのだから、もっと自在闊達に時間が使える仕事がいい。贅沢を言える立場ではないのだけれどネ。


2003年7月13日 でんでん虫
0713久しぶりに連日の雨模様、気勢が削がれてしまい、さっぱりトレーニングができていない。6月の生活の乱れが原因である。夜鷹生活で起床が遅い、夕方まで仮眠を取ってしまったりする。リズムの乱れがダイレクトに響いていた。矯正するべく、生活リズムを補正していたこともある。どうやら元の生活リズムに戻りつつあるようだ。夜は遅くとも1時には寝て、朝は8時には起床するリズムが大事。仙人生活に別れを告げ、人の塵埃に塗れる生活が近づいている。懸念事だった「ハム無線の免許」申し込みをした。二日から三日、受講すれば四級無線免許を確保できる由だ。天候不順、早く梅雨が明けてくれないかなあ。夕方、小雨降る中ではあったが走りに出た。最初はPowerWalkingから始めた。先日傷めた左足の「筋」を庇いながら歩いたのだが意外とイケタので、トコトコと走りを加えた。息も上がらずに相当な距離を走ることができた。大いに気をよくした次第。これなら奥秩父主脈縦走もなんとかなるぞ。梅雨が明けてくれないと「デンデンムシ」になってしまいそう。


ああでもない、こうでもない山岳会の登山計画書が古くて、はなはだ使いにくいので大改編に取り組んだ。いま、そんなことをしている場合ではないのになあ〜。で、A4用紙見開き、A3サイズの様式を開発した。両面印刷設定、季節ごとの持ち物リストなども可変式にして入れ込んだ。まあ、これ以上の計画書は、ちょっとないのではないかと自画自賛。それもこれも全て木蓮先生のお蔭です。まだまだ地図読み込みの途上にある。梅雨明けが遅れる気配なので気が揉めるではないか。
2003年7月12日 試行錯誤の末に


2003年7月11日 就職情報
「こむら反り」の痛みがまだ続いている。上下に挟まれた低気圧の影響で「じっとり湿った一日」。梅雨明け間近を思わせる陽射しも少しあったようだ。
改・登山計画書を木蓮さんが作ってくれた。傍らの机で地図を折り畳んで磁北線を入れる作業を丹念にやった。まあ、これで道迷いの危険性を70%ほどは回避できたことになるか。HR総研より就職情報の電話あり。私の経歴と合致する環境らしい。来週月曜日、気晴らしも兼ね久しぶりに九段下に赴くことになった。まあ、ひとつの情報として受け止めておこうか。


2003年7月10日 こむらがえり
痛い!明け方、脚がこむら返りを起こし、痛さのあまり飛び起きた。Windowsからプリンターが使えるようになった。今まで不便だったので大いに助かる。裏側の配線模様が錯綜して無残である。すべて木蓮先生のお蔭である。努々忘れてはなりません。山岳会専用の登山計画書、ごちゃごちゃして甚だ使いにくいのでレイアウトに加工を加えることにした。山と渓谷社刊の「計画書」は流石によくできていると思った。デザイン感覚に優れた木蓮先生の出番をお願いする。労賃として花の本を所望じゃと言われた。お安いものである。山岳会のFさんの山行報告書を読んだ。実に精緻に書き込まれているものだと感心した。山行報告書も提出するようにとの指示であった。ごもっともなことと頷けた。来週後半まで梅雨模様の予報だった。果たして本当に晴れるのかといささか心配になってきた。梅雨末期の大雨だけは勘弁して貰いたいものだ。


2003年7月9日 職安詣
職安、眼科往来。Fから業界情報を得たかったが多忙すぎてダメ。来週に延期した。津田沼にて木蓮と待ち合わせ。銀行、郵便局の帰路、ヨシキに立ち寄り、昭文社「金峰山・甲武信」「雲取山・両神山」国土地理院「瑞牆山」「金峰山」「居倉」「雁坂峠」、フリーズドライ食品を求める。店先で「日日草」二鉢をロハで貰った。木蓮の顔が知らずほころんだことは言うまでもない。「登山計画書受理しました」との連絡有り。が受理されたということは「登山計画書」の作法に合格点を貰ったということだ。(どうやらそうでもないことが判明した)これで下山報告をしなかったら大騒ぎになるってことだ。笑。
20:00から山岳会の新人ヒアリングために再び下総中山まで出向く。場所が不明なのでKさんと駅で待ち合わせをお願いする。登山学校に籍を置いたことで視野が相当に広がっている。白馬岳の後は更に専門的な山を学ぶ機会が設けられている。岩あり、沢あり、雪山あり、そのいずれにもザイルワークが必須となってくる。安全を確保するレベルが一段も二段もあがることになる。ヒアリングは山行規定の説明、並びに登山計画書の提出、報告についての説明が中心だった。私のHPのことを知っている女性がいたのには驚愕した。いやはや参ったなあ(あちらも参っただろうけど)8月、10月に沢中心の新人歓迎山行が企画されている由だ。


2003年7月8日 ああ、大阪駅
昨夜、「ああ、上野駅」顕彰の碑が上野駅に建立されたとのニュースを見た。該当する世代ではないのだが、有名な歌詞の一節は記憶している。
「就職列車に揺られて着いた、、遠いあの日を思い出す、上野はおいらの心の駅だ、くじけちゃならない人生が、あの日、ここから始まった」「ホームの時計を見詰めていたら、母の笑顔になってきた、、、、」
「ホームの時計を見詰めていたら、、」その下りで私はさめざめと泣くことになる。母を思い出してしまうのだ。
私にとっての思い出の駅は「昭和38年の大阪駅」。故郷を遠く離れ、北陸地方の片田舎で暮らすことになった。乗り換え列車の待ち合わせ。構内の石柱の下で徐にパンツを脱がされた。「臍の下」にできていた「化膿したおでき」の包帯交換をするためだった。周囲の視線なんか知っちゃいない。我が子のお腹に出来た「おでき」に名薬「蛸の吸出し」を塗らなくては、その一念だったのだろう。まだ○○○も生えていない、いたいけな少年にとって、大衆の面前でパンツを脱がされるという行為がいかほど恥ずかしいものであったか。数十年を経ても、その時の光景をまざまざと思い浮かべることができる。母の、子供を思う気持ちの強さに触れ、しみじみと暖かくなる。母は全身全霊をあげ、修羅となって私を守り育ててくれた。今日日の若いお洒落なお母さんたちは、大衆の面前で子供のパンツを脱がしたりはしないだろう。ホームの時計、その針の動きが母の笑顔に似ていると、歌詞にある。親不孝の私がさめざめと泣く所以である。大阪駅構内に時計があったかどうかは記憶していない。

梅雨空の一日。奥秩父主脈縦走の登山計画書を山岳会に送信した。19日までに「奥秩父主脈縦走」「白馬岳縦走」の支度を整えなくてはならない。時間、あるようでない。かなり切迫した日程になっている。
【目的】主脈縦走及び読図訓練 ○はエスケープルートを指す。
一日目韮崎駅〜増冨温泉経由で瑞牆山荘〜(60)富士見平小屋(幕営)
二日目所要時間合計 5:30富士見平〜飯森山〜(90)大日岩〜(110)金峰山〜鉄山〜(60)朝日岳〜(60)大弛峠○〜大弛小屋(幕営)
三日目所要時間合計 06:00大弛小屋〜(60)国師ケ岳○〜(120)東梓〜(60)富士見〜(120)甲武信ヶ岳○1630(小屋泊)
四日目所要時間合計 04:00甲武信ヶ岳〜木賊山〜(145)破風山〜東破風山〜(80)雁坂嶺〜(20)雁坂峠(幕営)
五日目所要時間合計 07:30雁坂峠○〜燕山〜(180)雁峠○(無人小屋)〜(60)笠取山〜(130)唐松尾山〜(70)将監峠○〜将監峠小屋(幕営)
六日目所要時間合計 06:40将監峠〜(140)飛龍山○〜(30)三ツ山〜(140)三条ダルミ〜○(40)〜雲取山○(無人小屋)〜(35)奥多摩小屋(幕営)
七日目所要時間合計 06:00奥多摩小屋〜(40)七ツ石山○〜(120)鷹ノ巣山○〜(60)六ツ石山○〜(130)奥多摩駅


2003年7月7日 七夕
生憎の空模様。夏の風物詩「朝顔」が一輪、ぽこんと咲いた。色は深い青、夕刻の頃には浅い藍色になっていた。

リフォームの最後打ち合わせに向かった。22日から30日まで不便な生活を強いられることになる。工事が始まる初期の段階で私は不在する予定(木蓮さん、悪しからず)壁、床コンクリートを削岩する機械の音で一日中騒音に包まれる。水周補修工事に絡めてあちこちの家屋でリフォームに着手しているらしい。
34年ぶりの大補修のメインは「水周り」の大改造にある。ガス管、給湯設備の充実、配水管の交換、設置、お風呂場、洗面所、トイレなどなど、今様の生活様式を採択し住環境の整備を行うというものだ。

当然のことだが築34年の分譲公団は今日の建築様式から随分離れている。そもそも、既に普及していたはずの洗濯機専用の排水管が床下に設置されていない。排水はゴム管を伸ばしてお風呂場に流すという設計だったらしい。当時の庶民の暮らしというものは、そんなものだったのだろう。それゆえの「うっかり水漏れ」が頻繁に発生していたらしい。3DK、3LDKという単位が憧れをもって語り始められた頃の規格。その頃の私の宿舎は四畳半一間であったことに想いを馳せた次第。なるほど、お風呂は銭湯、トイレは共同、洗濯機は外という時代であったなあ。流石に洗濯機のローラーは手回しではなかった。笑。

限られた空間に多くの間取りを確保しなくてはならない制約の犠牲は「窮屈なトイレ」「狭い洗面所」に及んでいる。反面、押入れなどの収納設備は必要十分以上に確保されている。今様のマンションで問題になっているのが「収納スペース」というから皮肉なものではないか。高度成長期の真っ只中で誕生した「3LDK団地」はこの地域に住む人々にとって「憧れ」でしたと、木蓮のお母さんは語っていた。

設計基準の古めかしさが際立つのだが、南面三室、何より全てのスペースに窓があるというのがいい。猫の額ほどのベランダだが、ささやかなガーデニングも楽しめる。ウナギの寝床のように造作された近代マンションではこうはいかないだろう。住むにあたって全面リフォームを施しているとはいえ、どことなく古めかしくレトロな雰囲気は今となっては貴重である。溢れる樹木と芝生に囲まれた閑静な住環境を私も木蓮も気に入っている。更に団地造成に伴って発展してきた「町・商店街・文化・病院・学校・公園」の歴史はお金には換算できない価値として光を放つ。二つの線路が交差する駅まで徒歩5分というのもありがたいことだ。(いずれ車を使わない生活を余儀なくされるだろうし)


2003年7月6日 救急救命法
午前中は「三角巾」の活用を徹底的にやった。なぜ「三角巾」なのか、なるほどこういう使い方をするのか!目から鱗という思いを味わった。一本だけではなく二本必要な訳も納得できた。午後からは山中における傷病者の搬出作業を学習。あらゆるものを活用して搬出する技術を学んだ。テープスリング、ロープスリング、ザイルワーク、カラビナ、ザック、ストック、新聞紙、シュラフカバー、銀マット等をあらゆるモノを活用して「傷病者」を安全な場所まで搬出する。興味本位の野次馬をも制御する「話し掛け」、傷病者に対する「優しい言葉掛け」も技術のひとつであると学んだ。二日間、実践中心の学習を体験して「救急法の基本」を理解した。来る「白馬岳」では少なくとも二人の「傷病者」が山行の途中に発生して、大勢の野次馬に囲まれる事態となるらしい。俄リーダシップが問われることになる。教えようとする者、学ぼうとする者の呼吸がシンクロした熱い二日間であった。いよいよ来週から夏の登山計画の策定と準備に入ることにしよう。


2003年7月5日 救急法・講義実践
登山学校7月のカリキュラムは「救急法全般」であった。千葉消防署からスタッフの派遣があり実践さながら、四時間に及ぶ熱中講義となった。モデルのゴム人形を相手に「気道の確保」「人工呼吸」「心肺蘇生」「異物の除去」「止血法」の実演をなんども試みた。止血点を抑えれば本当に脈が止まるのである。心肺蘇生は一定のリズムで心臓を押し続けなくてはならない。実際の現場に遭遇した時に冷静に対処できるかどうかは普段の意識付け、シュミレーションの反復によるしかないだろう。マニュアル類を非常用具に忍ばせておくのも一つの手だろう。 「熱中症」「熱湯」についても理解を深め、その対応についても学ぶことができた。更に「上級」を目指して欲しいとの要請があった。使わない技術は錆びてしまう。少なくとも2年に一度は受講して錆び付かせないような姿勢が必要だとも。「知っている」だけではなく「出来る」レベルに技術をあげることは登山に限らず大事なことだと納得できた。

夕食後、白馬岳登山の打ち合わせを行う。共同備品の配布、食糧計画について様々な意見が提出された。
「ペミカン」については「重さ」を理由に却下された。昔ならいざ知らず、最近はフリーズドライに優秀な品が多く出ているから、それらを使わない手はないでしょうとのことだった。打ち合わせの後は恒例の「酒宴」となった。


2003年7月4日 救急法講習・普通救命講習
明日から泊りがけで登山学校「救急法講習・普通救命講習」が始まる。必要とする部品は以下の通り。木蓮に急かされて支度を整えた。なんだか気が乗らないのは実際に山に向かう訳ではないからだろう。食糧計画と共同装備について意見交換しなくてはいけなかった。(うっかりしてるなあ、、平和ボケ)

三角巾(特大)、綺麗なハンカチ、タオル、カラビナ、テープスリング(120cm)、ロープスリング、ファーストエイドキット、ザック(大)シュラフカバー、ツエルト、銀マット、テントマット、折り畳み傘、新聞紙、ストック(2)、スーパーの袋、テーピング用テープ(2)、←(コットンテープ、非伸縮性、巾38mm×12m)、アンダーラップテープ


2003年7月3日 奥秩父主脈縦走
南アルプス市観光化に電話をした。崖崩れは秋まで復旧の見込みが立っていないとのこと。かくして南アルプス縦走計画は没。資料を漁ってさまざまなプランに思いを巡らせた。北アルプスは8月初旬に予定しているから最初から除外。「北の鳥海山」「新発田から眺めた飯豊連峰」「中央アルプス北面縦走」「八ヶ岳全面縦走」「奥秩父主脈縦走」などがテーブルに上がってきた。予ねてから挑戦してみたいと思っていた「奥秩父主脈縦走」に決定したのは夕方のことだった。

必要な地図、交通手段、小屋、幕営地、一日のルート、食糧計画などの膨大な資料を計画書にしたがってまとめる作業を楽しみながらやった。奥秩父縦走はマイナーではあるけれど一度はやってみたいと思っていたプランであった。

瑞牆山から始まり金峰山〜国師ケ岳〜甲武信ヶ岳〜飛龍山〜雲取山〜奥多摩駅を歩く6泊7日の長大なルート。本来なら四泊五日でも十分なのだが安全性を確保する為と自然を散策する楽しい時間も取り入れて6泊7日に設定した。全行程幕営で臨むが甲武信ヶ岳では小屋を利用し、翌日はお花畑でゆっくり散策する時間も持つという時間的には極めて贅沢なプランの骨格が出来上がった。途中におけるエスケープルートも書き込んで全体のスケッチが完成。

予算は食糧、地図、小屋一泊、交通費を含めて20000円前後であがるのではないか。明日以降は調達する部品と地図の細部を詰める作業を丹念にやらなくてはならない。「まず計画書ありき」登山学校で学んだ手法が実際の登山で活かされている事を感じる。2003年は学びの年と位置付け、さまざまな事を基礎から検証している。残された膨大なメモが発酵し文章にろ過されるまでに更に時間を重ねなくてはならない。

「Dr.コトー」を観た。名作「北の国から」の再現を思わせる骨太い演出に唸ってしまった。毎週木曜日が楽しみになった。


2003年7月2日 仕事の夢
久しぶりにネクタイを締めたせいで寝付かれない夜を過ごすことになった。頭が回転を始めて様々なシミュレーションが次から次に溢れ出て、とうとう明け方まで一睡もできなかった。身体のリズムが狂うとトレーニングに向かう気力も失せてしまう道理。これではいけないと木蓮と買い物がてら図書館に向かった。わずかでも散歩をすれば身体がリズムを刻み始めるものだ。往路、木蓮から「7月山に行く予算を計上するわ」との嬉しい申し出があった。「えっホント」と耳を疑う。「南アルプス行きたいんでしょ」「そうそう、そうなのよ」と破顔一笑した私であった。仕事再開へ向けて緊張している私を気遣ってのことだろう。

未踏の「仙丈ケ岳」を含めた北岳〜間岳〜塩見岳、四泊五日の縦走プランが頭を駆け巡った。アルプス林道、崖崩れがあって閉鎖されていることは知っていたが遅くとも梅雨明けまでには開通するとの読み。(明日、確認しなくては)図書館から関連資料を大量に借り出してきた。来週から本格的な計画立案作業に入り14日には山岳会の裁可・許可を得なくてはならない。作法に忠実であることが「山学」の基本ということになる。9日は山岳会報の編集作業手伝い、4月以降の新人に対する山岳会としてのヒアリングで意見を述べることになっている。 五日から六日まで登山学校カリキュラム・救急編がある。助けられたり助けたりを徹底してやる。来月白馬岳で実験するとのこと。血祭りにあがるの誰だろうね〜。


2003年7月1日 カレンダー
今日から7月。ニッコーキスゲ咲き乱れる尾瀬、北アルプス「笠ケ岳」の点景ふたつ。湧き立つ入道雲、夏色の空の到来が待ち遠しい。ほぼ10ヶ月ぶりにネクタイを締めた。身体が覚えているのだろう、寸ぷん違わずにネクタイの位置が決まったので少し複雑な気持ちになった。のほほんと仙人暮らしという訳にはいかないのだなと。魏国・曹操にならって「至弱の戦い」を展開するのみ。才気煥発、あらゆる技術を動員して「結果」を出す戦いに臨まなくてはならない。その為には、まず健康であらねばならない!生憎の雨模様でトレーニングはできなかった。6月に倍する量をこなして精進しようと思う。5月はデータこそ計上していないものの、評価できる運動量はこなしていたのだ。6月のリズムも悪くはなかった。7月もいっぱい汗をかこう。

注文していた「登山の運動生理学」が届いた。ヨシキにて五日から開催される「救急法・合宿」の部品を調達してきた。白馬岳登山合宿まで、あと一ヶ月。奥多摩で足慣らしの石尾根縦走・登山訓練をしておかなくてはならないだろう。



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