山ダイアリー
2003年9月 

2003年9月30日 明日から仕事再開
あれから一年。明日から仕事再開。これまでと、これからと颯爽と思案橋を越えて行く。振り返ることはしない。終の棲家を基地にして、これからの十年をどうプロデュースしていくか。昨日、NAKAより電話があったので互いの近況報告を行った。ますます状況が厳しくなってタイトな経営をしている図が窺えた。いい加減、里に返して貰いたいと思っていても会社は希望を入れてくれないと嘆いていた。単身赴任も5年に及ぶと、いろんな意味で疲弊して来るものだ。同じ時代を過ごした仲間が会社に見切りをつけて辞めて行くのは寂しいものだ。私の身の処し方に諸手をあげて賛成と言う意見だった。

それにしても五十肩の痛みには閉口している。加齢による更年期障害のひとつなのだが、かって経験したことのない痛みなのだ。で、発想を変えてみた。1Kgのアレイ二本を使って逆療法を試みることにした。テレビを見ながら両腕で負荷を掛ける。ゆっくりと二百回ほどやったところ右肩が暖かくなって痛みも心なしか寛いできた。痛いから庇うのではなく痛むからこそ細胞を闊達にさせて血のめぐりをよくするという手法。素人考えだが案外理にかなっているのではあるまいか。


2003年9月29日 風立ちぬ
五十肩の痛みで何度か悲鳴を上げる。疼痛が脳天に突き上げる度に息を殺して獲物を捕らえようとするカマキリのように動きが止まる。身体ボロボロ、歯ボロボロ、脳細胞ボロボロ、呂律、不明瞭。唯一の救いは精神だけは健康を維持していることだろうか。これとて支えがあったればこその事。己一人の力などと努々思ってはなりません。


2003年9月28日 秋到来
夏は既に遠くに去り全山紅葉の秋が来た。山は急ぎ足で冬の支度を整えていることだろう。

白馬岳を最後に山に向かう気持ちの余裕をなくした二ヶ月だった。10月を期して、再び山に向かう体制を整えて行こうと思う。昨年9月末以来、明日で一年、短いようで長い日々だった。当初からリターン制度の活用が念頭にあっての仙人暮らしだった。最大の壁「健康診断HgA1cdata」をクリアできるかどうかの不安は常にあった。ようやく越えたと安心したのもつかの間、思わぬ伏兵の出現に最後まで心が揺れた。私にとって必要な環境ではないのかな〜と疑心も生まれたのである。365日に及ぶ戦いの末、視界広がる山頂でお気に入りのガソリンストーブで珈琲と煙草を嗜んでいる気分を味わえた。更に大きな山頂を目指す為の大きな橋頭堡を築くことができたことを率直に喜んでいる。この尾根は越えた、さて次の尾根を目指すとしよう。

ところで、健康診断の壁をクリアして、すっかり油断したからデータは悪くなっているだろう。身体に悪いものを一杯食べたからなあ〜。身体に悪いものはとても美味しいのだと互いの顔を見合わせて苦笑している。10月から新しい気持ちでトレーニングにも取り組まなくてはいけないネと反省しきり。今のところ木蓮も寛容だが、いつまでも野放図に見逃してくれる訳がない「10月に入ったら粛清するわ」と息巻いている。


2003年9月27日 京王プラザホテルにて
新婦53歳、新郎58歳、共に「ばついち」再婚の披露宴は登場から爆笑の渦。そりゃ照れるよなあ。新郎は汗を額に浮かべ新婦は威風堂々のドレス姿、どうみても押し出しは新婦の勝ち。笑。同じ釜の飯を食べた仲間が一同に揃ったことが嬉しい。弔問外交ならぬ慶事友好という訳だ。ともあれ、風雪を経た熟年同士の披露宴は清清しいものがあった。成長し、それぞれの家庭を持った子供たちの花束贈呈に涙する新婦の姿が初々しかった。幸せの機微に触れたいい一日を過ごした。


2003年9月26日 ああ、しんどかった
午後2時、津田沼の書店に居る時にKitta担当よりメールが入る。95.5点の文字。どうやら3問間違えたようだ。漸く、一昨日からの不安から解放された。担当者からの電話が午後3時半頃入る。今後のスケジュールの案内に接する。来月一日から出社いただきたいとの事。365日をかけた戦い、勝利の内にひとまず終了。今夜からは悪夢に魘されることもないだろう。星野監督と同じ台詞を私も吐こう。「ああ、しんどかった!」木蓮ともども安堵の祝杯を「お好み焼き」であげた。心なし五十肩の痛みも緩やかになったような。

酔い覚ましに寄った書店で藤沢周平著「蝉しぐれ」文庫本を求める。


2003年9月25日 踊る大捜査線
鬱解消を図るべく津田沼で映画「踊る大捜査線」を観た。試験不合格の対処を考えると、ますます鬱になる


2003年9月24日 試験
秋雨の寒い一日。午後2時半、試験ようやく終了。予想に反して難しかった。深読みしすぎで墓穴を掘るという奴だ。自己採点では91.5点。ふたつ間違えればアウトだ。合格ライン(90点)に届かない可能性もあるぞ。なんだか鬱になりそう。。


2003年9月23日 秋分の日
昨年、今年続けて墓参に行けなかった。退職と就職ふたつの処理で余裕がなかった。
母さん、すまんな。
落ち着いたら行きます。

昨日今日と暦通りの寒さだった。義父母から「就職と誕生日のお祝い」のお誘いがあり永谷園で食事の馳走に預かった。明日の試験対策を午後7時半から。模擬を三回やり最後は満点で締めくくった。


2003年9月22日 誕生日
模擬試験の結果は合格ラインに達していた。わずか一問、ささいなミスで間違えた。
おやじさん、木蓮より誕生カードが届いていた。誕生日を祝う歳でもないのだけれどね〜。木蓮が「ちいさなケーキ」を買ってきた。いうまでもなく禁断の食べ物なのだが今日ばかりはいいだろうと。あは。

Takahasiさんからお誘いのあった「岩」への参加は無理な情勢だ。五十肩の痛みがいや増している。残念だが仕方がない。来月の登山学校の参加も危ぶまれる情勢ではないか。う〜む。天、我に利あらずや。


2003年9月21日 小さな痛み
台風15号の為、一日雨。窓を叩く風と激しい雨は映画「ドクトル・ジバゴ」の冒頭シーンを彷彿とさせる。今日から夜具を秋用に換えた。五十肩の痛み、少しも和らがず。イテ、イテを口にすることしきり。小さな痛みにからきし弱い、、昔からそうなのだが。

左手指を怪我した時は冷静なものだった。少しも騒がず、救急車で運ばれている時も、病院の待合室で待たされている時も、それは冷静だった。タオルが見る見るうちに鮮血に染まっていった。垣間見る傷口、鶏の軟骨に似た白い骨も見えていたが、同じく冷静だった。「いずれ痛みが出ると思いますから麻酔を打って貰えませんか」と看護婦に言った位のものだった。洗面器でゴシゴシと洗浄作業が始まり、たちまち真っ赤に染まっていった。麻酔に始まる縫合作業を終えベッドに向かった。一晩経って左手指がグラブのように膨張していた。痛みがジンジンと押し寄せてきた。「痛い、痛い」を連発して周囲の顰蹙を買った。

五十肩、スラックスのハンカチを取るのにも難儀、背広を脱ぐのにも難儀して、その都度「イテ」を連発している。情けないが、痛いものは痛いのだ。

NHK「蝉しぐれ」の世界に見る清清しさはどうだ。藤沢周平という人は、このような作品を書く作家だったのかと驚いてしまった。迂闊なことだと恥じ入るばかり。

備忘の為、記す
演出のことば…佐藤幹夫(演出家)
 三十代の頃、藤沢作品に出会ったが、その頃の私には狭い人情世界で窮屈に生きる登場人物たちが肌に合わず、感銘を受けることが出来なかった。そもそも、江戸ものの時代小説はセセコマシイ感じがして嫌いだったのである。六十代に近づき、「蝉しぐれ」の演出で藤沢作品と再会することとなって、「権力者の不条理な仕打ちに耐え、自らの人間性だけを矜持にして生きる主人公」に、素直に感情移入してしまった。不況が続くこの時代のせいなのか、それとも私自身の境遇の変化なのか。

 父親を切腹させた権力者への単なる復讐劇ではなく、人間の業や権力構造そのものへの諦念を、人間としてのリアリティを持ちながらも、なおも自分の人生を肯定しようとする牧文四郎のビルディング・ストーンの格調の高さに、ある「救い」さえ感じたのである。どんな境遇でも肩肘張る必要はないが、もっと背筋を伸ばして生きられるのではないか。そんな藤沢さんの声が聞こえた。

 自殺者が三万人を超える時代である。精神的な自死者の数を数えるのは空恐ろしい。そんな時代にこそ、藤沢作品は輝きを増すのではないか。そして「蝉しぐれ」の映像化は、貧困や圧制に耐えながら気高く凛として生きた日本人の姿を、再び思い返すいい機会になるのではないか。そう考えると、私の中で「蝉しぐれ」を映像化するときのスタンスが決まった。

 収録を終え、編集し音楽をつける過程で、自分で撮っておきながら感動する場面に多く出会った。主人公文四郎を演じた内野聖陽の魂の熱演、お福の水野真紀の清潔な存在がそれを可能にした。また二人の子役、森脇史登、伊藤未希のイノセントな感じが少年少女の淡い恋心を、郷愁を誘う感じで成立させた。村上弘明、柄本明の存在がこのドラマを分厚くしてくれたのはいうまでもない。

 藤沢周平さんがどんな気持ちで「蝉しぐれ」をお書きになったかは分からないが、暗闇の中で一条の明かりともいうべき愛を頼りに生きる主人公の姿に、映像化をお許しいただき納得していただけるのではないか、今はそう思っている。


2003年9月20日 週末という感覚
名刺の補正作業と図書館往来の「休日」。既に仙人生活に別れを告げ会社生活のリズムを刻み始めている。

阪神星野監督の「巨人憎し」は相当なものだ。まず勝つことへの執念、その為にしなくてはならないことは何かを積み上げてきたのだろう。「優勝する!」とぶち上げたキャンプの始まり。それまで意識すらしていなかった「目標」に全員が燃えた。声を出すこと。連帯感を醸成すること。果敢に前に出ること。それだけのことを、ひたすらいい続けたと言う。優勝コメント「ああ、しんどかった」に全てがある。


2003年9月19日 ありがたいこと
登山学校のTakahashiさんから岩へのお誘いメールが届く。前回参加できなかった私へのご配慮であった。ありがたいことだと思い、さっそく参加申し出のお電話を差し上げた。ところが驚いたことに台風15号が日本に上陸する気配を見せているではないか。22日中に台風が過ぎてくれればいいのだが。Yamagisiさんからもメールが届いて来月の沢はリーダーをお願いしますと、、。しばらく離れていた山が就職活動の終息を待つかのように近づいてきているようだ。五十肩の痛みを騙しながらやるしかないだろう。


2003年9月18日 仕事の道具、そのニ
一は、いうまでもなく手帳。二番目は名刺ということになるだろう。木蓮様のお力で「名刺」を作成した。総天然色カラーで表裏に及ぶ代物。若葉生い茂るブナの巨木をあしらいメッセージ一行(青)裏面には成長するブナの若葉をあしらいキャリアと三行のメッセージを茄子紺色で表現してある。独創的な名刺でなくては意味がない。ありきたりの手段で自分を売り込む愚は避けねばならぬ。自分が教えてきた方法を実践する立場になって何だか奇妙。ただただ成功の方程式を実践すればいいのだ。


2003年9月17日 ようやく峠
心ならずも山岳会例会を欠席する。まだ当分の間、山に向かう状況にはない。山行報告を聞けば矢も立ても堪らず行きたくなってしまうではないか。そういえば7月以降の会費を払わなくてはいけなかった。来月は出ることにしよう。その頃には多少とも沈静化しているだろうぜ。

研修も今日でテキスト全て終了し、明日からは模擬試験一辺倒の日程に移っていく。実に微妙な言い回しで混乱を誘うような文言になっているのが何ともおかしい。ともあれ全文、緻密に読んで模擬試験を受けること。どうやら墓参にも行けそうにないなあ。身辺落ち着くのは何時の事か。山も、仕事も、それがクリエイティブな事であるかぎりは「冒険」と呼んでいいだろう。惰性の仕事を指して「冒険」とは言わないものだ。与えられた仕事を黙々とこなすだけではダメでしょう。自ら目標を設定し、そこに到達するまでの諸問題を列記し解決する具体的な動きができることが成功への方程式だ。仕事の山を登攀していると思えばストレスもない、、確かにそうだなあ。


2003年9月16日 九段下
職務経歴書に添付する写真を三分間で撮影する。どうしても「極悪非道」の顔になってしまうのは笑える。担当者と面談して新しいエントリー先に応募を決める。まず数をこなさなくては話にならない。A社に出勤していても就職活動ができるというのはありがたい。先日のF社への応募総数は150通ほどあり書類選考の結果20名前後に絞られたとのことだった。今日現在、連絡がないところをみると選出に漏れたと考えていいだろう。どんまいどんまい、勝負はこれからだぜ。ついでに木蓮の職務経歴書も出して、ちゃっかり売り込みを行った。ふたり揃って、あちこちに種蒔き作業の日々である。木蓮は幕張まで別の派遣会社の登録に向かった。ひところ、時給1700円から1800円だった派遣社員単価も削減されている由だ。種を蒔き、刈り取る日々はまだまだ続く。

歩いている時、なにかの拍子で肩に激痛が走って、その場に立ち尽くす。いつ起きるのか予想がつかない怖さに、ちょっと怯えている。経験ないのだが、肩の脱臼に近い痛みなのではないか。首の回転もスムーズにいかない。一日一度の点滴をする時に不自由だ。後頭部を手で支えて後ろに倒さないといけない。首の蝶番までぎくしゃくした動きをするようになっている。頭というのは結構重いということが判った。

岳人10月号を書店にて求める。
「人はなぜ山に登るか」特集だった。なぜ登るかって、それはズバリ楽しいからだろう。ただ苦しいだけの所作を好んでする阿呆はいないだろうさ。家庭も仕事も振り捨てて山に向かう御仁も居るには居るが、大方の人にとって山は「楽しい」から登るのではないか。地理、地誌、文献、文学、写真、植物、記録、絵画とあらゆる領域に無尽蔵に広がりを持つ山が楽しくないわけがない。ただ登るだけでも楽しい、それに前記の好奇心が備われば更に楽しい。

西欧にとっての山は最初は悪魔の棲家、恐怖の対象だった。対する日本の山は、畏敬、信仰の対象だった。潜在意識の底に「畏敬・信仰」があることは論を待たないだろう。山に在るだけで至福、山頂に至れば至福の二重奏という訳だ。深田久弥が追い求めた山は、つまりはそういうことだったのではないか。彼が朝夕眺め暮らした白山、その視点と同じ場所で私も暮らした。

初めて登った山が「白山」であったことに非常な喜びを感じてもいる。ナップサック、ズック、トレパン、水筒、おにぎり、夏みかん一個の、今思えば信じられぬ軽装だったが、まちがいなく山頂に至り、露に濡れそぼる黒百合の匂いを嗅いだ。(でも、あの花はとても臭い!)室堂の小屋で串刺しゴロ寝の洗礼も味わった。寒さに震えた雨の下山も、今となってみれば懐かしい。金沢を離れるまで白山には計3回登り、山麓のブナの森を幾度となく逍遥した。(それも決まって晩秋の森だった)一歩踏み出した足の下に、夥しいの植物の種子、微生物が棲息している。足下に目もくらむような宇宙的な広がりがあることを瞬間的に知覚した。私の山遊びの発端は間違いなく白山山麓のブナの森にあった。かれこれ25年前のことになるのだが、書き記しておきたい事が文字通り「山ほど」あるのだ。

なぜ山に登るのか、人により回答はさまざまだろうが、私にあっての原点は「ブナの森に遊んだ記憶」「里山の藁を焼く匂い、赤い柿、稲刈りの風景、網を投げて川で魚を取った」等、自然への回帰を指すようだ。


2003年9月15日 阪神優勝!
先月の歯痛騒動以来、就職活動の混乱で控えていたTrainingを再開した。午後4時、久しぶりに薬円台公園に向かった。少し汗が滲む程度の負荷から始めるのがいいだろうと判断、ゆっくり時間をかけて五周した。使っていない筋肉が少しだけ悲鳴をあげていた。ストレッチを丹念にやったが右足のじん帯が少々痛い。もっとストレッチをやっておかないとダメだろう。右腕の回転が難しい、やっぱり五十肩だなあ。笑。高校生の一群が公園で台詞の練習をしていた。文化祭が近いのだろう。戻れるものなら三十数年前に戻りたいものだが。あの頃の自分と、今の自分、環境、時間は経ていても趣味、嗜好の基本は変わらないようだなあ。

阪神優勝、この日を待ち焦がれた浪速の人々の狂喜いかばかりか。おめでとう。関西の空に喜びの声が木霊していることだろう。


2003年9月14日 彷徨
消費税率の増大は早晩避けられない事態が来るだろう。最終の試算では20%あたりまで読んでいるようだ。来年度からは扶養者特別控除枠もなくなり保護下にあった家庭の奥様の立場も瓦解する。仕事は主人、内は妻という従来の習慣が音を響てて崩れてゆく。共稼ぎは更に増え、家庭は荒涼とした色に染められてゆくだろう。ほんとに嫌な時代になったものだ。

米国によってもたらされた消費の文化は人心までも消費してしまうという恐るべき事態を生んだ。物欲昂進、消費しなければ満足しない世代の台頭により日本国古来の清廉な文化は崩壊してしまったようだ。公共の場における非礼を指摘できない大人たち、見て見ぬふりをして傍観者、だんまりを決め込む大人たちが子供の模範たりえる訳がない。

誰もが個人主義、強烈な排他主義の流れはこれからも加速してゆくだろう。私の世代、私の世代の子供たちが、いままさに戦後文化の洗礼を受けて歪んだ心を抱いて彷徨っている。58年前の8月15日、あの日を境にして日本は本当に負けてしまったのだと思う。物量において、精神性において、完膚なきまでにアメリカの旗に染められてしまった。


2003年9月13日 休日気分
久しぶりの休日気分。午睡をたっぷり。すっかり弛緩してしまったなあ。木蓮、PCからのエントリー作業を継続。昨日の登録会社では知識・スキル部門でトップクラスの評価を与えられたらしい。仕事から離れて2年8ヶ月だが、培った知識・技術はまだ錆び付いてはいないということだろう。しばらくは負担をかけるだろうけど、こういう時代だから致し方ないか。仮に私が仕事を辞めていなくても、それだけでは潤沢な生活を送ることは不可能だっただろう。家屋の返済、教育に関わる資金捻出がないだけ恵まれていると解釈しよう。もっと大変な時代を生きているひとたちがいるのだから。

五十肩の痛みが増している。この分では沢登りの参加も絶望的かもなあ。山に遠ざかっているだけに憧れがいや増す。HPの更新も余裕がなくて放置したまま。これも致し方ない。できないときはじっと我慢して耐えるのが知恵というものだろう。


2003年9月12日 いろいろな準備作業
木蓮、派遣会社の登録作業で東京に赴く。F社からの連絡なし。どうやら選に漏れたかな。

健康診断の壁を通り抜けた安心感で、すっかり気が抜けてしまった。講義のテキスト、問題集も最終回までやってしまったので甚だ退屈だった。鼻歌気分でいいのだよ。詳細にシュミレーションするのも無駄なこと。出たとこ勝負で充分間に合うはず(それだけの力量は充分にあると自惚れていい)

HR総研のK氏から電話が入る。別の案件が発生したのでお出でいただきたいとの事だった。たとえ、それが仕事とはいえ、私を気にかけて情報を収集してくれる人がいるのである。報告がてら16日朝に伺うことを約束した。夕食は禁断の「揚げ立てトンカツ」を食べた。うまかった〜。


2003年9月11日 概ね可
ようやく医務課の査定連絡が来た。「概ね可」で合格。ようやく一つの結論が出たのでほっとした。漠とした不安を抱えながらの一年だった。運動、食事両面にわたって協力してくれた木蓮のお陰である。休憩の合間に電話を入れて「ご報告」。24日に行われる試験に合格すれば、今までの知識、スキルを縦横に稼動させることができる環境を漸く整えることができる。一年間の錆を削ぎ落としてピカピカの新入社員にならなくちゃ。笑。山も、現実の世界も、頂に至る行程はまったく同じと気付かされる。日々平安の環境を構築することこそ最大の冒険と言える。

Dr.コトー、、ああ、もう終わってしまったよ。


2003年9月10日 手帳復活
徐々に仕事の事を思い出しつつある。使い慣れた古い手帳に新しい紙を挟み、使い慣れた2Bのシャープも復活させた。仕事のチャート表を作成している。段々、思い出してきた。朝8時に起床、朝食、洗顔、仕度のリズムを思い出している。仕事のリズムを構築する、ちょうど良い訓練期間になっているようだ。笑。


2003年9月9日 銀座にて
銀座三丁目にあるF会社の説明会に参加。仕事の説明と筆記試験に臨む。この結果を踏まえて、今週中には一次二次面接の通知がある。来週の面接を経て健康診断に臨むことになる。22倍の狭き門である。さてどうなるかなあ。多分、無理ではないか。笑。ズバリ、キャリアでは負けないが年齢で負ける。とはいえ年齢制限をしていないのだから関係ないかも。それにしても22倍ってのは凄いなあ。

午後から船橋A会社の研修に参加。15時に終了。担当機関長がご機嫌伺いに出張ってきた。医療データの件を伝えたのだが知らされていないと言うことだった。

HgA1c=6.7との結果が出た。本社の査定待ち、さて、これもどうなるか。まあ、なんとかなるのではないか。とはいえ、何ひとつ決まってはいない不安を抱えながら毎日出歩く日々を過ごすのも、ちとしんどい。


2003年9月8日 憂鬱
再度の血液検査。予想通りHgA1cを調べる為のものだった。会社の研修に参加した。Kのその場かぎりのお手盛り研修に辟易した。粗雑で乱暴でおよそ情緒がない。再診を受ける身への細やかな気配りもない。午前中で帰るもの、午後から来るもの続出。あれだけの荒業を施行しても現場は何も変わっていないと思うと情けないばかり。甚だ気分を害したので早退してきた。


2003年9月7日 うろうろと
書棚の整理を行った。整理と処分は仕事モードに切り替える儀式。仕事再開へ向けて「健康管理・物・時間」のシフト体制を敷かねばならない意識が発動しつつある。


2003年9月6日 散歩のついでに
気晴らしの散歩のついでに五十番で夕食を取った。公園を横切っただけで蚊に刺されたと騒ぎ、好物の杏仁豆腐を一人で食べたと騒ぎ、キュウリが安いと色めきたって八百屋に入り、ほんの四本ほどを袋に入れて。


2003年9月5日 再診
医務課より要精密検査のファクスが入り、来週月曜日に再度の血液検査を受けなくてはならなくなった。脛の傷が図らずも露見してしまった。JR津田沼で携帯に連絡を受けたのだが冷静に受け止めることができた。「そうか、発覚したのなら致し方ない。おそらく、たまたま血糖値の数字が高かったか、健康保険の履歴照会をしたかのいずれかだろう。今更ジタバタしても致し方ないでないか」と瞬時に判断。最終判断は来週の後半に持ち越されたということだ。検査対象は、いうまでもなくヘモグロビンの数値である。これが7以上だと採用不可と決定されてしまう流れ。産業医の所見は相変わらず厳しい。先月末の採取データは6.7だった。そのデータなら許容範囲のはずだ。

会社側としても相当に焦った様子で「くれぐれも暴飲暴食をしないで過ごしてください」との要請があった。元の古巣か、A社かF社、そのいずれかの保険を掛けておいたメリットが活かされる。来週火曜日はF社の面接・筆記試験が控えてもいる。併行しながらの就職活動は当分続くのだから一喜一憂しないで淡々とやっていくほかない。本当に必要なものは「あっちのほうからやってくる」。

1330南浦和駅、古巣で共に仕事をしたN氏と会った。代理店を6月から始めた彼の仕事を詳細にヒアリングさせて貰った。こういう動きも、ちゃんと意味があるのだろう。

修理に出していた自動車が戻ってきた。修理伝票に記載されている車名「アレックス」となっていた。どうやら修理代金を安くする為の「苦肉の策」らしい。なかなか粋な計らいをしてくれるものだ。


2003年9月4日 そこに、人が生きている
医者を辞めようとは思わなかった。誰かが僕を必要としていてくれるのじゃないか、生まれかわる為に僕は島に来たんですと語る下り。人として救われたのは僕の方だったと、船の上から深々と「ありがとうございました」と頭を下げるシーン、船酔のおまじないの指、手作りの草鞋が鞄の上に。

Dr.コトー診療所のテーマを現すフレーズを以下に抜粋した。ドラマに出て来る群像たちが凝縮されている。

人を救って人に救われて、そこに、人が生きている
悲しみを胸に閉じ込めて、そこに、生きている人がいる
捨てきれない思いを抱いて、そこに、生きている人がいる
幸せも後悔も宝物にして、そこに、生きている人がいる
強がりで自分を隠して、そこに、生きている人がいる
誰かと出会い誰かを信じて、そこに、生きている人がいる
生まれた場所を受け入れて、そこに、生きている人がいる
人は変われることを知って、そこに、生きている人がいる。

あれほど楽しみにしていた岩講習を中止した。今の状況では当然のことだ。置かれている状況を理解して、そこから生きていくことが始まる。先々の暮らしを案じて寝付かれない夜を過ごすのも今暫くのこと。一旦、仕事を再開すれば多忙な日々が戻ってくる。電車に飛び込む事と手が後ろに回る事だけは止めてくれと木蓮からのご要請に応えなくては。(あは)


2003年9月3日 夢と歯軋り
仕事の事を考えて目が覚めてしまった。ここ数日というもの仕事の事が頭から離れない。仕事再開への増幅する不安から愚かにも様々な情報に翻弄され迷宮に入り込んでしまった。どうしても楽な方向に逃げようとする。迷った時は原点に戻ればいい、このシンプルな事さえ忘れてしまっていた。私の原点は、私のやりたい事は、そもそも何だったのか。限りある時間を自由に自在に過ごすこと、その為に培った技術を思い切り発現することではなかったか。馴染んだ手法、身に着いた言葉を駆使する環境を求めることこそ上策というものだろう。自らの偏見と不安で狭めてはならない。それは不可能なことか、いや決して!それは手に届かないものか、いや決して!それはクリエイティブな仕事か、YES!自由は手に入るか、YES!収入は潤沢か、YES!但し、軌道に乗せるまで二年ほどは苦労するだろう。

本日、古巣の会社説明会に赴いた。職種変更してのエントリーだけに私の動向はみんなの注目を浴びていたようだ。全スタッフが私の元を訪れて「頑張ってください」と握手を求めてきた。元ちゃんは、ハードな仕事にいささか疲弊していたようだ。それでも「今年も北海道にチャリンコ旅行をしました」と嬉しそうに語っていた。仕事、最終的な決定をしている訳ではない。キャンセルすることも充分にあるのだからエラソウナ顔をする訳にはいかない。説明会が終わるまでじっと貝のように寡黙に過ごした事はいうまでもない。ともあれ毎日スーツを着てネクタイを絞める生活が、ほぼ11ヶ月ぶりに始まったことは確かだ。残暑厳しい一日だった。


2003年9月2日 ふたつの道
道がふたつ。右、左の違いはさほどではない。方法論において顕著な差があるだけ。片や今まで慣れ親しんで知悉している手法、もう片方は完全なる独立自営の手法。どちらがより自分を活かすことができるかだろう。まだまだ情報を集めなくては決断できない。焦ることはない、じっくりいこうよ。


2003年9月1日 胎動開始
内科にて入社時健康診断を受診してきた。採血に失敗して四度も針を刺されたのには閉口した。いままで一度だって、そのようなことはなかった。件のネエチャン、流石に三度失敗して自信をなくしたのだろう。「すみません、すみません」を連発して別の女性にバトンタッチを依頼した。腹が減っていたので甚だご機嫌斜めの私であった。「むすっ!」カルテに書き込まれていなかった「尿」の結果を確認に行って貰った。「異常なし」だった。視力、聴力、心電図、レントゲン等を終えたのは11時半だった。ようやくひとつの橋頭堡を築くことができた。思えば長い戦いの日々だった。今日一日は禁断のケーキ、コロッケ、ご飯お代わり三杯の食い放題であった。えへ。

A社S氏よりアポイントが入り、明日、急遽会うことにした。積極的に関わって来ようとする姿勢は評価しなくてはならない。依然として殿様商売を展開し古い体質を捨て切れない恨みの残る会社。人間関係の確執の坩堝は、もとより覚悟の上だが、もう少し違う展開もあっていいいのではないか。死差益を唯一の利源とする会社の商品構成と、それに依存しない外資系との商品の違いはビジネス方法も相当に違うはずだ。出生率の低下と高齢化問題が市場の壁として立ちふさがる。一億総病人時代という訳だ。外資が高齢化したターゲットに的を絞り商品展開をする方法は確かに正しい。



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