山ダイアリー
2003年11月 

2003年11月30日 ご機嫌伺い
明日から入院するオヤジさんのご機嫌伺いに出向いた。綺麗サッパリ散髪し身支度すっかり整えていた。


2003年11月29日 爆睡
午後一時近くまで寝てしまった。多少の肩の痛みも誤魔化せるようになった。オヤジさん、やはり一日から入院することとなった。差額ベッド料の高さに木蓮が悲鳴を上げる図。一日18000円という感覚は庶民領域を越えている。それだけのサービスしてくれるんだろうなあ、、などと肩を揺すりたくもなる。オヤジさんに電話をして「後顧の憂いなく」と伝えておいた。


2003年11月28日 棚卸作業
一日、仕事の棚卸作業に専念した。冷静であること、沈着であること。ここ二ヶ月ほどは仕事が趣味状態だったなあ。


2003年11月27日 毀誉褒貶の徒
本日をもって11月〆。浅ましく心貧しい人々が街に溢れている、何時の世にも毀誉褒貶の人はいるものだ。理由を他に求めて鬱憤を晴らす輩との付き合いはご勘弁願いたいもの。そういう眷属は避けるに如かずである。高い志を持って勉学に励むNakagawaのような青年も居るのだ。 担当医師と面談の結果、月曜日から急遽入院することに決定した。今日は一日中、木蓮が付き添って対応した。オヤジさんの庇護の下、電車の切符も自分で買ったことがない義母のことがはなはだ心配である。


2003年11月26日 〆切日
11月の仕事が今日で終わった。先月も、今月も余裕のある仕事ではなかったが何とか形は整えた。流れの中で12月の仕事も半分ほど仕上てしまった。余裕を持って来月、次月の仕事の体制を整えることができる。このリズムを維持する為に、当月に倍する種蒔きを行わなくてはならない。仕事を趣味にしてしまえば、これほど楽なことはない。二ヶ月を経て、ようやく仕事の感覚(現場の)を取り戻すことができた。

娘の入籍日が25日と決まった。不肖の父なりに、できることはしておいてやろうと思う。サザエさん家のような丸いちゃぶ台とホットプレートが所望らしい。


2003年11月25日 伊豆長岡
21日、25日仕事で伊豆長岡に赴く。明らかにオーバーコストだとは思うが乗りかけた舟である。自分の仕事への拘りを試す試験と思って最期までやった。全盲者の置かれている環境が想像以上に厳しいことに驚いた。場末の温泉場で人様の身体に触れる仕事は3Kの比ではないだろう。愛娘を心ならずもそういう場所で働かせなくてはならない親の心中を思う。結果がどうであれ、そこまで拘って仕事をしたという満足感が自分を支えてくれるだろう。情けは人の為ならずということだ。ほぼ二ヶ月追いかけていたクライアントから電話があった。設定したコンセプトを理解いただいた結果は「吉」だった。もはや人縁地縁ゼロではないということだ。至弱から至強に至る戦いは幕を開けたばかりだが初戦から今日まで、ことごとく勝利した。3年ぶりに仕事を始めた木蓮のフォローあればこそ。



2003年11月24日 仕事
連休最期の日、軽いジョギングの感覚で背広を着て仕事に向かった。「ぐたいてきに動く」ことが結果に繋がる。「行動」することが「果」を呼び込む「因」になる。今の段階は「質」ではなく「量」であることを銘記すべし。まちがっても効率などと口走ってはならぬ。石垣の石を淡々と積み上げるべし。大きな石だけは城は立たない。使えそうもない小さな石こそが大事なのだ。

富士山八合目で滑落事故があった。あの斜度とこの寒さではアイゼンも刺さらぬアイスバーンのはず。独立峰の風の強さも加わる。ザイルで結び合っているからこその危険ということもある。一人滑れば一蓮托生の危険が充分にある。次月、安達太良山に向かう為の訓練をしなくては。今週末は山に向かおう。講師の高橋さんより安達太良山への参加を問うメールが届いた。冬山に始まった基礎訓練が安達太良山で完結する。一年という時間をかけて登山の基礎を学び直したことの意味は大きい。地理、地誌、植物と多岐に亘る山との付き合いを来年から本格的に始めることができる。


2003年11月23日 おさんどん
洗濯、掃除、炊事の作法を学ぶ。始めと終わりの行程をしっかり復習すること。家事全般に精通するのも仕事に精通するのも「丁寧・迅速・正確」の基本は同じ。あれはでるきけれど、これはできないというのは詭弁、ただの甘えに過ぎない。仕事も家事も、どうせやるなら楽しみながらやることが一番だろう。


2003年11月22日 愛の鬼才 西村久蔵
生命の洗濯も時に必要だろう。視点をずらして自分の軌跡も眺めてみることだ。三浦綾子著「愛の鬼才」文庫本を求める。西村久蔵、その名前こそは遥か昔から聞き知っていた。

懸念していた通り、オヤジさんの腫瘍は悪性だった。昨日「ガン」の告知を受け、転移の有無を精査中である。いずれにせよ、入院は避けられない事態となった。衝撃の深さは改めていうまでもない。あのオヤジさんの事だから気丈に受け止めているだろうが、唯一、お義母さんの動揺だけが心配である。今日は木蓮が早朝から付き添いで同道した。私にできることは「おさんどん」の一切であり、励ましだろう。今後は、掃除、洗濯、家事一切を私が担当し、少しでも付き添いができるような体制を組むことだ。嘆くことはない、生死の彼岸は霧の中にある。私の叔父は肋骨のほとんどを削りとられながらも、しぶとく生きている。ガン治癒率は一昔前とは比較にならないくらい向上している。もし、私が同じ立場に立ったなら最終地点までの時間を読み、あらゆる事態を想定して手を打つだろう。あのオヤジさんの事だ、懸念することはない。

今日はまったく手帳を開かなかった。仕事を完全に離れた一日を過ごした。


2003年11月21日 全盲の人
全盲の娘を持つ老夫婦の車に便乗し伊豆長岡まで脚を伸ばした。片田舎の温泉場でマッサージ師として働く彼女は点字を打って自分の生年月日と氏名をタイプしてくれた。子を思う親の気持ちを推し量り、いささか胸の塞がる思いをしたことだ。
どうやら仕事が趣味になりつつあるようで、寝ても覚めても仕事のことばかりを考える習慣が身についているようで苦笑してしまった。どうすれば事態を変えることができるか、ああでもない、こうでもないと設計図を書き直す作業に余念がないのだ。忙しい時ほど冷静に、必要な手は全て打つこと。手帳を広げ、TODOを書き付け、必要なファイルは直ちにPC作成し鞄に格納する。この一連のプロセスを楽しんでいる気配があるなあ。弱気と畏怖ふたつとの葛藤の日々なのだが、それもなんだか楽しんでいる気配があるようだなあ。

娘よりメール届く。単身、渡米し初志を貫く強い娘に対抗できるほど私は強くはない。こどもの幸せを思わぬ父、母はいない。


2003年11月20日 親思う心に勝る
「親思う心に勝る親心きょうの訪れ何と聞くらむ」幕末、吉田松陰が辞世に詠んだ句。今日、刑場に消えていく身である。両親はいかほどに私のことを心配してくれているだろうか。私が親を思う、その気持ち以上に私のことを思ってくれているのである。罪により刑場の露と消えるのだけれど、その報を受けた父母の悲しみはいかばかりだろうか。どうか先立つ不幸をお許し下さい、、、如何なる理由があるにせよ、親に先立つのは不幸の極みではないか。


2003年11月19日 設計図
仕事を再開して一月半経過。とりあえず及第点を付与していいだろう。結果を出す為の「ぐたいてきな動き」がシンクロしてきたようだ。人縁地縁ゼロでも仕事は出来ると豪語してきた立場である。なんとしても実証しなくてはならない緊張感が私を支えてくれる。明日何をするか、明後日何をするか、来週の予定は、、空欄が予定で埋まるように設計図のラインを引いて行く毎日だった。


2003年11月18日 ヤッケと手袋
mont-bellのヤッケが役に立つ。シンサレート手袋を装備すると実に暖かい。今日も一日冷静に仕事をすることができた。周囲のリズムに振り回されて右顧左眄する必要さらさらなし。これでいいのだと思う。完全に仕事の感覚を思い出してしまった。
木蓮のオヤジさん、声帯に腫瘍が発見された。直ちに順天堂病院に向かい、その日の内に病理検査に廻された。更に精緻な検査が必要とのことで20日〜22日まで通いながら検査に臨む由。検査結果が出るまでの9日間、重苦しい日々を過ごすことになった。木蓮がシフト体制を敷いて万全のフォローをするだろう。特に義母のサポートが大切になるはずだ。


2003年11月17日 木枯らし一号
今までチャレンジしなかった壁をひとつ壊した。ほぼ予定通りに一日を過ごした。仕事を始めて、今日のようにゆっくり時間を計画的に過ごしたのは初めてではないか。急かされる仕事をしていたような気がする。どぶ板仕事の毎日ではあるけれど、いつか花を咲かせてやるさ。尊大に振舞う人、謙虚な人、しょぼくれた人、毀誉褒貶の人の世ではあるけれど、しっかり自分の仕事をしていきたいもの。「与えて期待せず」が座右の言葉。土も耕さず、水も肥料も与えないで結果だけを求める卑しい仕事はしてはならない。今日と明日の仕事を丁寧に積み上げていけばいい。


2003年11月16日 南風
強い風が吹き荒れた一日。明日から西高東低冬型に移行するとの事。木枯らし一号になるかも。仕事の電話三本、これも立派な仕事である。仕事の棚卸表を作成した。まだまだ仕事量としては不足だが、じっくり腰を据えて取り組むことが大事だろう。焦って荒い仕事をしてはならない。仕事の道具がまだ馴染まないし使いこなせていないと感じることが多い。いかに優れた道具であっても使いこなせないのでは宝の持ち腐れというべきだろう。


2003年11月15日 鍋奉行登場
岳人12月号 クリーニング持参 図書館 買い物と普段できない事を集中的に処理。晩御飯の惣菜は半額売出しの魚てんこもり鍋。野菜たっぷり入れて酎ハイ一本。料亭なら軽く10000円コース、久しぶりの豪華版。先週後半から私にできる範囲で家事を担当するようになった。クリーニング、布団上げ(下げはない)、茶碗洗い、お風呂清掃と仕度などなど。「おさんどん」実務能力の向上は共稼ぎの必須条件。負担を軽減することで時間の余裕もできるようになるはずだ。三浦雄一郎のオヤジさんは100歳近くになっても自炊を常としているというではないか。大いに見習うべし、である。食事後の片付けの手順を木蓮から学ぶ。仕度しながら片付けをしていくのだという。魚、肉を食べた後の片付けの留意点、最終ゴミの処理方法、水、お湯の活用方法に至るまで細部に渡って指導して貰った。木蓮の母の指導の賜物というべきだろう。かって私も亡きおふくろに「おさんどん」の技術を学んだ。それは、魚の捌き方、烏賊の皮の剥ぎ方、裁縫の返し縫から掃除の作法に及んだ。実務を重ねれば、次第にそういうことも想いだしてくるのではないか。



2003年11月14日 序の口
仕事が軌道に乗るまでにまだまだ時間がかかる。まだ案件が少ないから「多忙な人」のようには稼動できない。大いに悔しい。いきなり横綱相撲という訳にはいかないノダ。はは。あたかも「私は仕事をしています」というフリはしなくていい、ありのままでいい。お茶を挽くことがあってもいい。お茶を挽く余裕もないほどに、いずれ多忙になるのだから。

それにしても8月以降の日々に余裕がない。木蓮も仕事を始めて余裕がなくなった。テレビも読書も生活も、なんだか余裕がないのだよ。今年一杯、この調子で走るのだろうなあ〜。仕事を辞めて一年、引越し、リニューアル、仕事の環境を整えるまでの三ヶ月、仕事を始めて二ヶ月、思えば慌しい日々を送ってきたものではないか。一刻の隙間もなく時間は流れて行く。私も、木蓮も金曜日が来るのを心待ちである。


2003年11月13日 整体院
少しでも痛みが早く治まるように保険が効かない津田沼整体院に行ってきた。五十肩の痛みは、わずか一回位の治療では治らない由だ。ましてや整骨院の電気などお金と時間の無駄とバッサリ。一番良いのは痛み止めを大量に飲んで鉄棒にぶら下がることなのだと。痛みを加速させることで治すしかないのだと言う。痛み止めの注射をあちこち打って鉄棒にぶら下がるのが最短、最良の方法なのだと。癒着した肉と肉、骨と骨を乖離させるのだと。おお、凄惨なこっちゃなあ。腰の骨を整える時に肩に手をあてて思い切り踏み込む!肩に激痛が走る。思わず悶絶しそうになった。ちなみに大の男が痛みに耐えかねてオイオイ泣くのだと。失神するほどの痛みを一瞬経験すれば治りは早いんだと。失神ね〜、、、おお怖い。


2003年11月12日 激なり
五十肩!


2003年11月11日 11月カレンダー
紅葉する霧島連峰が主題になっている。韓国岳から高千穂峰に至る道筋のひとつひとつを鮮やかに思い起こすことができる。山行回数は少なかったものの想い出に刻む山が多かった。12月の最終山行でようやく基礎を終了することができる。冬山に始まり冬山に終わる一年だったなあ。書かれていない記録を補正する作業を重ねなくてはいけない。


2003年11月10日 余韻
山行の余韻を味わう一日だった。脚に少し筋肉の張りを覚えた。


2003年11月9日 白樺の森
天候悪化が予想されたので行動予定を下山に切り替えた。あの高さで、あの雨と風ならば山頂は暴風雨との予測を講師陣は下した。八ヶ岳は風の強い場所と以前から聞いていた。爆裂口がいたるところにあり複雑な風の流れを形成していることが窺える山容である。大きな爆弾のような風が一陣吹けばザックを背負った状態では支えきれないとの事だった。10月下旬に単独行の人が墜落した。170cmの体躯が最終地点では原型を留めぬ70cmになっていた由。

桜台に至る道で夥しい集団と遭遇した。来年の諏訪大社祭りに使用する木材の調達とのこと。屈強の男子たちがゾロゾロと列をなして歩いてきた。その数おおよそ200名ほど。大きくまっすぐな樹が必要なのだと言う。話に聞く諏訪大社の神木落しの準備とのことだった。「三井の森」に至る道すがら美しい白樺の森を見ることができた。懐かしい蓼科は山一つ隔てた場所にある。


2003年11月8日 美濃戸口山荘〜硫黄岳
深夜、美濃戸山荘に到着。すぐさま仮眠体制に入る。総勢36名が床に転がった。焼酎を一気飲みしてたちまち寝入る。0500頃より騒がしくなる。年寄りは早起きで困るという声があちこちから。笑。ありがたいことに山岳会OB夫婦の方のトン汁の炊き出しに接した。早朝から支度を整えてトン汁を振舞って下さる所作に深々と頭の下がる思いがした。私利私欲の徒ばかりが目立つ風潮にあって、なかなかできることではない。紆余曲折あったが久しぶりに山頂に立つことができた。心と身体のリズムが山に馴染むまでに数時間を要した。一旦はリタイアも覚悟したのだが。臨界点を超えてからは快調に足が前に進んだ。初めて分け入った八ヶ岳、硫黄岳山頂を踏むことができたのは仲間の励ましおかげである。

午後3時にオーレン小屋に到着。今期閉鎖の案内が出ているにも関わらず我々の為にだけ小屋を開けていただいた由。トン汁の炊き出しといい小屋の解放といい、人の輪の広がりなくしては到底できないこと。冬季小屋、数枚の布団と非常食、屋根があり布団があるという環境がいかに貴重なものであるかを見聞できた。騒乱の食事を終えて早々に就寝に向かう。三班がやたら騒がしい。高歌放吟とまではいかないが酒乱が揃っている気配だなあ。36名が眠るスペースを確保するのにスタッフが声を大にする場面、恐るべき鼾の連鎖で眠れぬ人が続出した。ジェラシック・パークと叫んだご婦人がいたが「その通り!」と同情を禁じえなかった。串刺し入れ子の眠りを久しぶりに経験した。


2003年11月7日 いざ
21時半、西船橋駅集合。食事材の買出しとザック最終点検で忙しい一日だった。。


2003年11月6日 登山仕度
畳に部品をひとつひとつ並べてリストに基づいて部品の点検作業を始めた。全て揃うまでに大凡2時間を要した。地図は東部ではなく西部が必要なのだという。参ったなあ。標高2700mの岩稜地帯を歩くのが今回のテーマとある。さてどうなるか甚だ不安。肩についで今朝は腰まで変調をきたした。通い始めた整骨院の効果、少しはあるようだなあ。痛い思いをしないと治らないことってあるよなあ。トレーニングウエア上を羽織っていれば肩の痛みはそれほどではない。やはり冷えるのがいけないようだ。


2003年11月5日 札幌ラーメン
北海道直送の高価なラーメンを食べた。濃い醤油味で「こく」があった。なかなか変わった味だなあと思った。

伊東屋に発注していた手帳が届いた。木蓮お気に入りの手帳も復活した。毎日、仕事の話で暮れるのだが、まあ仕方ないだろう。 なにせ3年ぶりに外の世界にでたわけだし。


2003年11月4日 休みボケ
信頼されることが仕事の原点。どうすれば信頼を得ることができるかを考えなくてはいけない。コツコツ地道な仕事量を積み上げることが大事。急いて雑な仕事をしないように戒めなければいけません。八ヶ岳の地図を準備した。


2003年11月3日 文化の日
肩の痛みにバンテリンなんて、しゃれにもなんね〜。痛いんだよなあ〜。


2003年11月2日 葬儀参列
木蓮、葬儀出席に出かける。寝坊したらしく慌てふためき朝ごはんも食べずに。電車にもギリギリ乗車したらしい(その時の必死の様子が想像できておかしいや)。


2003年11月1日 津田沼にて
昨夜儲けた泡銭を投下して豪華なお買い物デーを過ごした。木蓮は靴二足、サンダル一足、来年のカレンダー(三種類)外国製手帳(中身)、書籍。私は、ザイル、ヘルメット、ハーネス、FILOFAXレフィル2004版、超整理手帳2004版を求めた。本日からiMacにダイレクトに記録を認めることにした。



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