山ダイアリー
2003年12月 

2003年12月31日 大晦日
08:00オヤジさんの送迎の為、病院に向かう。体重5Kg落としてマスク姿の痛々しい姿であった。一月ぶりに自宅に戻れる嬉しさが滲み出ていた。一時退院ができる人はまだいい。要観察の人の傍らに「せんりょう」が飾ってあった言う。2003年、いろいろなことがあった。恒例の丹沢詣、明日一番の電車で向かうことにする。


2003年12月30日 仕事納め
約束していた案件の処理で電話。どうやらクライアントが風邪を引いて帰省できないようだ。結論が出来ないままに年を越すのは残念だが致し方ない。仕事始めの前哨戦は、ともあれ勝利することができたようだ。来年は本格的に仕事を構築する年になるだろう。元旦に丹沢に詣出ることを決める。


2003年12月29日 Choral
BEETHVEN SYMPHONY No.9 IN MINER.OP.125 BRUNO WALTER COLUMBIA SYMPHONY ORVHESTRA 1959YEAR RECORDを聴く。


2003年12月28日 ランニング
一日おきのランニング。師走の雑踏が始まった。依頼していた餅が出来上がる。木蓮、実家に向かう。


2003年12月27日 賀状作成
ようやく賀状が出来た。全てパソコン作成で対応した。住所録データを整備した。


2003年12月26日 師走モード
惣菜「餃子」「ほうれん草胡麻和え」「酢豚」を買ってきた。おにぎりを解凍し味噌汁を作れば立派な夕食。明日は「湯豆腐」にしよう。木蓮、本日で仕事終了。明日から伸び伸びと過ごして貰いたいもの。それにしても照会件数が多かった。コード別入力で査定マークされているのではと疑ってしまった。


2003年12月25日
本日、娘の入籍日。婿さんの両親から「寿」の品々が届く。恐縮の至り。いつもの通り、黙々と走りに出たさ。


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2003年12月24日 クリスマス
多忙な一日であった。巷はクリスマス気分らしいが我が家には気配すらない。外食もいい加減飽きた。今日の晩御飯は煮込みうどんであった。葱を大きく刻んで牛肉を入れて、これで立派な肉うどんという訳だ。トレーニングで外に出たらどこからか賛美歌の声が聴こえてきた。なるほどクリスマスイブなのだと納得した。


2003年12月23日 冬至
「冬来たりなば春遠からじ」と古の人は言った。これからが寒さの本番。気を抜かないこと。

一月、那須における冬山を目指してトレーニングを集中的に始めることになる。走りこみを二週間ほどやっておけば何とかなるだろう。夕方から二時間ほど走ってきた。随分と身体の切れが悪くなっているなあ。ヨタヨタではないか。左ひざも少し痛かった。明らかな筋肉の衰退。ああ、情けない。今少し体重を増やしたいもの。バランスよく食べてトレーニングして基礎代謝量を上げていけば2Kgは稼げるはずだ。2003年、忙しい日々を過ごした。特に後半8月以降から心急く日々となりホームページの更新も疎かになってしまった恨みが残る。まあ、ゆっくりやればいいのだ。いろいろあったなあ。


2003年12月22日 ダイヤのピアス
木蓮がダイアのピアスを買ってきた。頑張ったご褒美ということで。年末、お正月の山の計画などを思案するもまとまらない。オヤジさんの体調如何に拠る。


2003年12月21日 図書館
共に図書館に詣でるのも久しぶり。それほどに心急く多忙な日々を過ごしていた。オヤジの入院、見舞いの送迎、義母のサポート等はまだ終わらない。放射線と抗がん剤の併用によりガン細胞が縮小している気配。どうやら年末ギリギリまで照射する気配だ。山の予定も、そこのところを見極めてからになるか。


2003年12月20日 若い二人
13時定刻に娘がオトコを連れてきた。「HIRASHIMAです」とオトコは名乗った。「父です」と娘が私を紹介した。間髪を入れず「あなたに頼むしかないんだよなあ」とシミュレーション通りの言葉。それから二時間近く互いに緊張しながらの会話。一年後に渡米して仕事をしたいこと、ビザは一番有利なグリーンビザの申請をしていることなどの話が出た。仕事の具合によっては永住することもありうるとのことだった。既定の事実を確認するだけだったが、型を踏むという形だけは整えることができた。まずは良かったのではないかと安堵した。長身痩躯、綺麗な双眸を持つ青年であった。やりたい仕事があって、それを目指す途上にある青年であった。

北の国から・遺言 後編を観る。家族を守った男とさまざまな人間群像を描いたドラマの最終回。今日の日に、このドラマを見るというのも何かの縁というべきだろう。「おとうさん、あなたは素敵です」脚本の最後の言葉。富良野塾・塾長の言葉が印象に残る。魂を洗うことがドラマの本質であると。行動して感動を創るか、座して感動を得るか君はどちらを選ぶのかと。座して感動を得る君とはお茶を飲もう。行動して感動を創る君とは共に酒を酌み交わそうとも。臓腑に沁みる言葉ではないか。


2003年12月19日 北の国から「遺言」前編
30歳を迎えた純に新しい出会いが、蛍に怒鳴り飛ばされる五郎、旦那の帰りを待つ蛍、奥さんのガンが再発し余命幾ばくもないと宣言される親方、携帯電話の世界に没頭し現実の人との会話を拒否する息子、さまざまな群像を描いて秀逸。いよいよ明日が最終回。

ここで暮らし始めて丁度一年。


2003年12月18日 多忙なり
仕事の案件が重なって多忙な一日を過ごす。今週が仕事の山。どうやら30日まで仕事をしなくてはならない気配。仕事を趣味にすること、それがポジティブということだ。ご祝儀を現金書留で送るというのは私はともかくオヤジさんに対して失礼なことだろうと思って電話させた。一度はキャンセルした日程を復元し20日にこちらに来させるように手配した。木蓮に言わせれば、私はひたすら甘くデレデレなのだと。娘にトコトン舐められているオヤジなのだと。対立する構図のままの息子も居るというのになあ。


2003年12月17日 例会
未納の会費を支払いに出向いたようなもの。Iさんから山行への参加を促された。ありがたいことだと思う。籍を置いてから一度も共に山行に加わったことはない。登山学校を軸に山を捉えていたからだ。来年は積極的に参加して組織に溶け込む努力を重ねて行こう。スタッフ半数リタイアの為、来年は登山学校は開校しないとのこと。


2003年12月16日 北の国から
連続五夜放送が始まる。生きてゆくことの意味、時間の重みを感じさせてくれる。純も蛍も大きくなった。私のこどもたちも大きくなったのだ。


2003年12月15日 忘年会
人集まるところに軋轢があるのは予想していた。番を張りたがる輩がここにもいた。繊細で臆病で、評価を気にし可愛がられチヤホヤされたいという「見て見て光線」のボスがいる。実力を伴わないだけに醜悪である。閉会の辞、頼まれもしないのに壇上にあがり、こともあろうに個人の名前を出して指弾するなどもってのほかではないか。その異様さに唖然としたことだ。勤続31年のボス猿が裏方で断末魔の動きをしているようだ。「私を見て見て光線」を発する輩はどこにでもいるものだと今更に。


2003年12月14日
段取りの悪い娘がいる。最初に相談し会わせなくてはいけなかったのは兄ではなかったか。忙しいというのが理由になるはずがない。たとえ離れていても要請があれば飛んできただろうに。人の気持ちを忖度し配慮するという意味においてまだまだガキの領域を出ないというべきだろう。母も父も、その後でよかったのに。一番最後になった兄の気持ちはさぞかし複雑なことだろう。来週20日に会うことになっているのだが釈然としないまま会うのは憚られるという気持ちが作動してキャンセルした。全ては娘の段取りの悪さが原因である。


2003年12月13日 マトリックス
木蓮、午後からオヤジさんのお見舞い。帰りは津田沼で買い物をするという。ゆっくり過ごせばいい。まだまだ先は長いのだ。私も気分転換。午後、津田沼で映画を観てきた。娘とのメール往来を数通。心を去らなかった重荷がひとつ減った。母の安寧、ふるさとの爺様婆様への紹介、旦那となる彼と兄貴との交流がそれだった。表舞台、同じ桟敷には上がれない立場。青山に在る骨董品屋を覗いて来ることになった。娘のわずかばかりの注文に応えてやるのが、不肖の父の、せめてもの努めというべきだろう。


2003年12月12日 山仕度
夕方からザック仕度に取り掛かる。精緻な点検を終えた頃、M氏より会社経由で電話がある。奥さんが喀血したとの事。わずかでも喀血となると尋常ではない。「ガン」という言葉が頭を過ぎった。オヤジさんの事も気がかりであるし、、そう思うと山への意欲が減退してしまった。やはり待機しなくてはなるまいと。


2003年12月11日 寒い朝
一日雨模様の天気。明後日に迫る山がいささか負担だなあ。放射線と抗がん剤の使用ですっかり食欲を無くしてしまっているようだ。義母と連絡がつかないと急ぎのメールが入る。仕事を途中で止めて高根台に向かう。布団の中でテレビを見ながらうつらうつらしている義母がいた。電話の子機が外線状態のまま放置されていたことが原因。連日の看護往来で疲れているのだろうなあ。木蓮実家に投宿。


2003年12月10日 リーダー論
リーダーは率先して範を示さなくてはならない。その付託に応える資質を持たない者はリーダーとして処してはならない。ここ三ヶ月を省みて思うこと、もう一人の私が私に指示を出していた。「そんな動きではダメだ」「今日、明日の仕事はできているのか」「今日何をした」「明日何をする」一時も休むことなく命令を出していた気がする。空白の手帳、その予定を埋める努力を怠ることはなかった。一週間単位で時間を俯瞰する習慣がようやく馴染んできた。漸く三ヶ月を経て累計の目標数字を達成する見込みができたことを素直に喜んでいい。コンセプトにこだわる私の手法は本質を外していない。不安な船出から確信の舵取りに移行できるところまできたようだ。人縁地縁ゼロであっても仕事の成果を出すことはできると常日ごろ標榜していたことを実証しつつある。明日からは更に「明日の為の仕事」に邁進しようと思う。手綱を緩めないことだ。



2003年12月9日 満月
今日の仕事と明日の仕事、この両輪を欠いてはいけない。成功への方程式、今日までのところはできているようだ。油断しないで更に明日の仕事を積み上げて行こう。冷静、沈着、量をこなし提案を怖れない。かって自分が部下に指導してきたことを実践するのは何となくこそばゆい気がする。良い意味でのプレッシャーになってもいるようだ。仕事は危機感に支えられると言うではないか。


2003年12月8日 トレーニング再開!
仕事を始める前後からトレーニングの余裕がなくなっていた。そろそろしなくちゃいけないだろうと思っていた。今日一日の最大の課題はトレーニングの再開だった。久しぶりに走ったなあ。最後までコースを走りきったことが評価だな。安達太良山に向けて付け焼刃的準備だが、できるところまではやろうかなと。


2003年12月7日 快晴なり
早朝から洗濯、布団干し、ガーデニングと忙しく立ち回る木蓮。親戚への対応で今日も義母と病院へ向かった。布団の表裏干しが完了する午後2時まで動けない。パリパリのシーツとほかほか布団に包るのが木蓮の「幸せ実感」なのだと。


2003年12月6日 浦安順天堂病院
義母、木蓮を乗せて病院に向かう。点滴二本を打たれて憔悴模様の義父が居た。食事が喉を通らないのだと言う。顔色も悪かった。我がままを言いたい気持ちも判らぬではないが後々の為にも体力をつけておかなくてはならないはず。連日付き添いに向かう義母、仕事をしながらサポートする木蓮、そうして私、この一週間は慌しい毎日を過ごした。志織への寸志のお礼を述べて午後2時一足先に家に向かう。特別室から大部屋に移って「元気が出た」と報告ある。個室で悶々と過ごすより「人間じんかん」に居る方がいいのだろう。生活の音、人の笑い声、話し声が聞こえる環境こそが大事なのだと思う。

夕食は義母の家。好物の烏賊とアジの刺身を揃えてくれた。私への気遣いがうれしいではないか。私は湯豆腐を楽しみにしていたのだが、、所望すると、それも食膳に並んだ。笑。親戚のお見舞い騒動が勃発しつつある。口先だけで心のないお見舞いなど要らないと、もっともなことである。「まとまったお金が必要でしょうから送ります」と宣まった人からの書留が10000円であったのには驚いた。東大卒の旦那、当の本人は御茶ノ水出の才媛と意識しているそうだが、そういう手合いを世間では「小賢しい」という。「まとまったお金」の感覚とはそんなものか、である。思い遣りなく、怜悧、吝嗇、卑しい心根が垣間見えて甚だ気分を害した義母と木蓮であった。

夜、義母方の親戚一同が揃って見舞いに来る旨の連絡が入る。狼狽する義母をサポートするべく木蓮が出動することになる。日曜日ゆっくり過ごしたかっただろうに。多忙の極みだが致し方ない。一度見舞いに来れば沈静化するだろう。義父は病臥しつつ戦い、義母と木蓮はサポートしながら病気と戦う。バカ婿はニコニコ笑いながらおさんどんをする図でいい。絵に描いたようにはうまくはいかないものだが。


2003年12月5日 下駄を履くまで
仕事は油断できない。細心の注意を払って仕事に臨むことが大事。フランス製「QUOVADIS」を使い始める。一週間単位で時間を俯瞰するコンセプトが実に合理的で唸ってしまった。木蓮四日ぶりに帰還する。お疲れ様!


2003年12月4日 Primus No.210
件のストーブ届く。時代を経ても色褪せない真鍮の輝きはいいものだ。流石にブリキケースは錆などがあるが立派に役目を果たすだろう。病床のオヤジさんの心を少しは和ませてくれるだろうか。夕食は木蓮の実家にお呼ばれ。


2003年12月3日 生命の灯火
一日から今日まで義父母の対応で木蓮奮闘する図。早朝9時担当医師から治療方針についての説明がある。幸い他への転移はなかったようだ。今日から放射線治療始まる。一月ほど抗がん剤と併用し様子を見るとのこと。がん細胞が微妙な位置にあるらしく直射ができないようだ。最終的には摘出も想定しているのだろう。木蓮、義母への対応で実家に泊り込み。


2003年12月2日 遊歩大全
新田時代に精読し、どこを探しても見つからなかった書籍「遊歩大全」森林書房刊の初版が届いた。落札価格は9000円と当時の三倍の値段だったが、ほぼ新品同様ではなはだ満足。遠い記憶を遡る。金沢時代、書店を素見して新刊の背表紙を眺めていたシーンのどこかに「遊歩大全」の赤い文字があったようななかったような感覚がある。

オヤジさんの回復を願って1932年製の骨董ストーブを落札した。5.15事件「問答無用!」犬養毅首相暗殺の年。1934年生まれのオヤジさんより長生きのストーブである。退院の暁には、おごそかに点火式を行い好物の珈琲を点てて祝うというのがコンセプト。


2003年12月1日 浦安順天堂病院
本日より入院。午後から仕事に出る。「旅は靴づれ」1000円届く。北園時代に精読し、手許に置いて置きたいと思った書籍のひとつである。

この二ヶ月で「失敗したこと」のリストを作成する。成功したことより失敗したことリストが遼に仕事に役立つ。



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