TOP > Hill Walk> 東北の山旅-8 

東北の山旅 2004.08.07-14

東北の山旅 八日目

月山 標高1984m
死と再生の山

2004.08.14(土)雨
コース
道の駅「月山」〜月山登山口リフト場(退却)〜道の駅「寒河江」〜山形市街〜蔵王IC〜浦和IC

0700 覚醒。食事を済ませた後、直ちに月山登山口に向けて出発。いままでの快晴が崩れ、すっかり雨模様となっていた。小雨に煙る月山湖を右手に眺め標識に従って左折した。曲折した山道をひた走る。青森県の「恐山」を想わせるような森の深い陰鬱さは雨のせいだろう。キャンプ場を経て月山登山口のリフト場に到着した。激しい雨となっていた。駐車場は満杯だった。レインウエアに身を包んだ登山者たちが歩き始めていた。その様子を眺め月山に登るモチベーションが急速に下がっていった。家を出てから今までの行程があまりにも天候が良すぎたのだ。山は雨の日もあれば晴れの日もある。少しの雨なら登るのだけれど、七日に及ぶ旅の疲れも堆積していることだし、また来ればいいではないかと、都合のいい弁明を立てあっさり踵を返した。昨日、念願の鳥海山を登ったこともあり心が満たされていたことが退却に拍車をかけたのだろう。笑。

寒河江川を右に見ながら山形市街に向け車を走らせた。山形市は北に月山、朝日山連山、南に蔵王連山に囲まれた砂洲の地に開けた地域だ。盆地だから夏は暑く冬は寒い。 けしからぬことに山を下るにつれて空は次第に明るくなり、道の駅「寒河江」に着いた頃にはすっかり上がっていた。見渡す限り「さくらん ぼ」畑が広がっていた。いつもトランクにある古色蒼然のガソリンバーナーを出し珈琲を淹れた。ゆったり旅気分。コリンフレッチャー著「遊歩大全」の数行を思い出した。アウトドアの世界を私に教えてくれた名著。絶版となり、巷ではアウトドアバイブル本として法外な価格で取引されているようだ。上下を一冊にまとめた1987年初版本が私の書棚にひっそりとある。

それにしても今回の旅は、実にいい天気に恵まれた。旅の終わりも近いと二杯目の珈琲を飲みながらひとりごちた。

「寒河江」の地名の読みが不明だった。後に「さがえ」と読むのだと知人に教わった。「江釣子」といい「寒河江」といい、地名の読みだけは刃が立たないことが多い。 蔵王連山を正面に眺めながら山形市に向かいアクセルを踏んだ。やがて市街地と思われる方向に鶴岡郊外と同じ色のジャスコ巨大店舗が見え始めた。有名な芋煮会が催される「馬見ヶ崎川」沿いGSで給油し、スタッフに道を尋ねた。教えられた通りに走ると「木地師 金山木工所」」の看板が見えた。「お椀とこけし」を作る工房のようだ。興味をそそられ車を停め立ち寄った。70歳位のいかにも職人貌の爺さまが、どっかりと椅子に腰を据えロクロを廻しながら木を削っ ていた。ふっくらとした顔立ちの娘さんが忙しそうに立ち動いていた。「見学させてもらっていいですか」と挨拶すると「どんぞどんぞ」の返事が返ってきた。言葉に甘え見物させて貰った。太い木材を抉るように削いでいく行程があざやかだった。お椀の内側を削いで行く刃物道具は普通とは相当違っていた。椀を削る専用道具なのだそうだ。バナナよりも更に湾曲した刃物は使うことは勿論、研ぐのも相当難しいのだろうなと思った。

友人Sと東北を巡る旅の途上で蔵王を訪ね、天童で「こけし」を土産として求めた記憶がある。「こけし」を可愛いという人いれば、どことなく気味悪いと言う人もいる。大小の「こけし」が整然と並ぶ館というのは、やはりちょっと不気味かなとも思う。東北は度々冷害に見舞われ夥しい人が飢饉で亡くなった歴史を持つ。「こけし」は亡くなった子供の形見としてあったのだろう。津軽半島、恐山の炎熱地獄の砂浜に廻る風車と赤い袈裟を纏った石地蔵の姿を思い出す。口寄せするイタコの婆さまは「あの世の家族」との交信を行う。亡くなった家族たちの「言葉」を伝えるのだという。その「言葉」を聞いて家族は泣き深く慰められる。

蔵王には格別の思い入れがあった。宮本輝「錦繍」の冒頭は次のように綴られている。 「前略 蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラリフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すらできないことでした。私は驚きのあまり、ドッコ沼の降り口に辿り着くまでの二十分間、言葉を忘れてしまったような状態になったくらいでございます。あなたにこうしてお手紙をさしあげるなんて、、」

運命的な人の出会いがもたらした破綻。離婚から十年の時節を経て偶然蔵王で再会した二人。来し方の重い季節が往復書簡という形で綴られ、やがてそれぞれの再生へ向けて歩み出す物語。作品の中で作家は破滅と再生の命の物語を丹念に紡いでいく。「生きていることと死んでいることはもしかしたら同じことかもしれない」と主人公は無数に瞬く蔵王の星空を眺めつぶやく。その一行が深く心に刻み込まれたことに端を発し、作家の幾つかの作品に触れることになる。代表作「流転の海」この一冊があれば生きていけると、そう思わせてくれた作家だった。ついに2009年--2010年にかけ全集作品を揃えるまでに傾倒した私だった。 羽黒山、月山、湯殿山も「死と再生」と深いつながりを持っている。東北地方の土壌文化の底流には、どうやら「そういうもの」があるらしい。その後、東北のことを学ぶ過程で木地師についての知識も深めることができた。縦横に山を駆けた縄文時代から中世近世に及ぶ山の民の深い暮らし模様があることを知った。「こけし」 もまたその歴史の中から生まれてきたものだろう。木工所見学のお礼を述べ、馬見ヶ崎川沿いの道を走り、やがて蔵王ICに入った。山形自動車道から東北自動車道に入り、村田PAで土産品を求め一気に南下した。

かくして2004年夏に始まった東北の山旅は2010.11月、ようやく終わった。実に六年にわたる長い山旅であった。



永らく完成しないままに放置されていた「東北の山旅」の記録を、ようやく脱稿することができた。おおよそ六年に渉る長い旅が終わった。宮沢賢治記念館を訪れることから始まった旅は山形県山形市で幕を閉じた。この夏、木蓮と力を合わせホームページを開設したことが契機となった。写真データとのリンクは未了だけれど、とりあえず原稿をオンラインに載せるところまで漕ぎ着けた。載せるに あたって記録を読み直してみた。その記録のあまりの雑駁さに驚いた。冷や汗が流れた。全面改稿に取り組み相当の日数を費やした。使い慣れない鼻持ちならない言葉と過剰な表現が随所に埋め込まれていた。事実を正確に記す態度が欠けていたことを恥じるばかりだ。文章作法を学んだわけではない。過剰な思い入れだけが先行し、ただダラダラと書き連ねただけの、はなはだ醜悪な作文だった。ひと言で書けば「くどい」ということになる。余計な修飾と過度の思い入れは正視に堪えないものだった。「書きすぎる」こと、それが最大の欠点だった。全面改稿を施す過程で、再び「東北の山旅」を心に刻むことができた。

先日来、松本清張を読んでいる。初期の短編集を読み進める中で「文章作法」に思い至ることが多々あった。事実を踏まえ簡潔に書く作家の力量に舌を巻いた。記録であるからには何よりもまず正確を基にしなくてはならない。感情の赴くままに書きなぐってはいけないのだと気づかされた。足し算と引き算と言うことになる。何を書いて何を書かないかの判断がとても大切だと思い至った。ラフなスケッチを重ねて、次第に本当に描きたいことの輪郭を定めてゆく。雑駁で余分な脂を取る作業は仮借なくやらなくてはいけないのだとも。それが書くということなのだと松本清張から教わったような気がする。

写真データを参照し、時間と状況を正確に再現するところから始めた。使っていたカメラはメモ専用だった。メモすらも雑駁で目も当てられないレベルだった。いずれにせよ、記録としてあげていくのであれば精緻なメモと写真を残していかなくてはいけないことを痛感した。今回の改稿に際してネット検索を駆使しイメージを呼び覚ましたことが随所で役に立った。

実りの多い旅をした。山は言うまでもなく、宮沢賢治、藤沢周平、宮本輝、縄文時代から現代に至る東北の歴史、トルストイ、ドストエフスキーに及ぶ豊穣な世界の扉を啓蒙してくれた。このことは大いに評価していい。時を経るごとに汲めども尽きない思いが岩清水のように染み溢れてくる。とはいえ、幾重にも織り込んだ一枚の刺繍織は、ここで一旦、想い出の箱に仕舞うことにする。新しい旅に出たいと思う。いつの日か、木蓮を伴い辿った路をランプの宿に向かいたいものだ。

2010.11.3脱稿。


inserted by FC2 system