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奥多摩逍遥登山 2011.01.08-09

奥多摩逍遥登山 一日目

2011.01.08(土)快晴
コース
「御岳山」831m

0800 家を出て一路奥多摩を目指した。お目当ての河合玉堂美術館は1/4日から長期閉館となっていた。急遽、御岳山登山に切り替えた。
滝本駅で駐車代金で1000円を支払った。1037発、賀正2011年の日の丸を飾った黄色い電車が降りてきた。寒さに震えながら乗り込んだ。御岳登山鉄道滝本駅からケーブル、リフトを使って「登った」。これを登山というのだろうか。高度差400m、22度の斜度を一気に登ってゆく。ああ楽チン。時間にして七分。正式な登山ルートはあるのだが残念ながら時間が押していた。御岳山頂831mで関東平野一望の景色を眺める。雲ひとつない紺碧の空が広がっていた。遠くに平将門が馬を駆って暴れた筑波山が見えた。いつかは登らなくてはならない山として在る。

「もしもし、水がザックから垂れていますよ」の声。道理で尻が冷たい。慌ててザックを開けてみたところ水を詰めたグランテトラ水筒の蓋が開いていた。またもやゴムパッキンの劣化による漏水だ。使い始めて10年以上経つから無理もない。ゴム交換で済むのだが残念ながらこの水筒を作ったフランスメーカーは姿を消し ている。いくつかの店にあたってみたが部品がないという返事だった。使いやすい道具なんだけどなあ。市場淘汰の流れには抵抗うのも骨が折れること。
玩具のようなリフトを使い尾根に出た。御岳山山頂神社まで急勾配の坂道、石段をよろよろと辿る。樹齢1000年の神代欅と苔むす大きな家屋を眺めた。小さな商店が小物を並べ通りすがりの客を呼び込んでいた。ぜんざい、甘酒、団子、焼きイワナなどの 看板についつい目が行く。坂道にある多くの宿坊は参拝者の為に建てられている。旅荘としての役割も果たしているようだ。200段近くの階段を登り、大勢の人でにぎわう満艦飾の神社を眺め見た。参拝道路の両脇に立つおびただしい碑(いしぶみ)の群。関東一円の講からの寄進。どこそこの何某と個人名が鮮やかに彫り込まれている。こ の世に生きた証、名を残したいという人々のいじらしい願望が垣間見えた。私の名がここに彫り込まれることはまずないだろうなあと思った。

紀元前の建立とされる御岳神社の宮(標高929m)には大勢の人たちがいた。拝観することなく次に向かった。この道を辿ればやがて大岳山に至る。見晴し台のテーブルでは年配のおじさんが盛んに会話を楽しんでいた。ビールありラーメンあり、和気あいあいと時局を語り日頃の鬱屈を発散していた。ベンチに腰を下ろし家から持参した「唐揚げ」でランチをした。風もない穏やかな陽射しが溢れていた。いい気持ち。野点道具を取り出し珈琲を味わった。それにしても御岳山神社に至るまでの階段はきつかった。膝は笑っていな いのだが大腿四頭筋がブルブルと小刻みに震えるのには笑った。この程度のことで情けないことだ。錆落としの山として御岳山、悪くない。大岳山まで向かうことなく踵を返し往路をすみやかに下山した。

奥多摩湖に向かい「水と緑のふれあい館」の展示を詳細に眺めながら夜の帳が降りるのを待った。東京都民の水瓶として奥多摩湖はある。ダムができる以前の人々の暮らし模様が写真に収められている。縄文時代の遺跡から始まる歴史模様が並べられている。ダムを作るためにはまず運搬用の道路を造らなくてはならない。壊れてゆく人々の暮らしが偲ばれた。いずれ湖の底に沈む石川県白峰にある桑島部落を訪ねたことがあった。壊れた家屋に入ると茶碗、雑誌類が散乱する痛ましい光景を目にした。間違いなく人の暮らしが営まれていた痕跡があった。高度成長の名の下にどれだけの人々が生まれ故郷を後にしたことだろうか。都民の暮らしを支える水瓶として奥多摩湖は雲取山を始めとした山々の水を集め日本有数のダムとして機能している。

奥多摩にある「もえぎの湯」で汗を流し腹を満たした。氷川キャンプ場駐車場に移動し、冬用シュラフに包まり、せせらぎの瀬音を枕たちまち寝入った。


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