島々宿〜徳本峠を歩く(回想の道) 

赤いザック 1996.10月、富士山を共に登った友人Oと島々宿から徳本峠を越えて上高地まで歩いた。 心に刻む思い出深い旅だった。回想として記録を残しておきたいと思い稿を起こした。 もう6年前の出来事なので、細かな箇所でいささかの記憶違いはあるかもしれない、、。

【日 付】 1996年10月09日〜11日
【行程/歩行時間】 島々〜徳本峠 7時間
 島々宿バス停〜二俣 2時間
 二俣〜岩魚留小屋 2時間
 岩魚留小屋〜力水 1時間20分
 力水〜徳本峠 1時間40分


穂高への想い
近代登山の黎明期に多くの人々がこの峠道を越え、槍、穂高を目指した。 歴史的な文献を探れば探るほど魅力的な道に思えた。 ヤマケイアルペンガイドの冒頭に案内されている道でもある。 その頃、発刊された雑誌[山と渓谷]9月号でも特集を組んでいた。 高校時代に読んだ北 杜夫著[どくとるマンボウ青春記]に、 この島々から徳本峠を越えて穂高の威容を眺めた印象深い描写が心に残っていた。 松本高校に在籍していた当時に筆者は何度もこの道を経て上高地、槍、穂高を逍遥した経験を持つ。 心の奥底に刻まれた、その文章の道を私も辿ってみたかったのだ。 北アルプス、穂高こそはいつかは登ってみたい山だった。 幾度か上高地を訪れる機会があった。大きなザックを背負った岳人が、いかつい格好で奥へ分け入っていく。 一般の観光客は、せいぜい明神池まで脚を伸ばすだけ。その先は岳人の世界が広がっている、、、 私の脳裏には北 杜夫の抒情的な文章が刻み込まれていた。 おれも行ってみたいなあ、、憧れに似た気持ちをいつも抱いていたのだった。

京都に住む友人に[今度は島々宿から徳本峠]を歩かないかと提案したところ、一言返事でまとまった。 話はとんとん拍子に決まり、初冠雪を迎える10月10日前後にしようと言うことになった。 心躍る山への期待が高まったことはいうまでもない。 雑誌の記事を詳細に読み、地図を広げて行程時間などを把握した。 文献にあたり凡そのイメージを把握する楽しい作業が続いた。 友人と何度も連絡を取りあい山小屋の予約を済ませた。

 ◆  ◆  ◆

10/09 出発の日
そうして遂にその日を迎えた。
松本駅で落ち合うことにした。当時、住んでいた前橋から長野経由で松本に向かった。 到着したのは9日の夜遅くであった。構内のベンチで仮眠を取ろうと思っていたのだが、 当時松本駅構内は、ある時刻になると一斉にシャッターが閉ることになっていた。 明らかな締め出しを意味する。多くの登山者が松本を訪れる。 いわば管理上の問題なのだろうが、岳都[松本]として知られることを考えあわせると 古の時代を思い、せちがらい世の中だなあと慨嘆したことだった。 やむなく駅近くのホテルに宿を取った。友人は明日早朝に松本に到着する手筈になっていた。 寝過ごしてはいけないと思い、フロントにモーニングコールを頼んだ。 朝食もそこそこにホテルを後にして松本駅に向かった。多くの登山者が集まっていた。 大きなザックが道路上に立てかけられていた。 いかにもアルプス的な雰囲気、自分もその中のひとりなのだと思うと嬉しかった。

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10/10 島々谷の奥深くへ
友人と松本電鉄で島々に向かった。島々宿ではバス接続がうまく行かなかった。 近い場所であったのでタクシーを奮発した。 島々宿にある小さな商店で食糧を仕入れ、川沿いの車道を谷に向かって歩きはじめた。 北 杜夫が、幾多の岳人が歩いたこの道を私たちも歩き始めた。
ザックが肩に食い込む。かって経験したことのない重さだった。 無理もない、なんてたって北アルプスだもの。 しばらくは舗装された櫻並木の道を歩いたが、ほどなく民家もなくなり林道歩きとなった。 二俣までは谷歩きとなる。行程差は約280m、距離5K徒歩2時間とあった。 渓流の音が心地よいリズムで迫ってきた。この先もずっとお友達の沢だ。 沢筋からの伏水が道に溢れていた。ゲートが道を遮断していた。東電取水場に到着する。 ここからが本当の登山道となる。
登山道に入ると間もなく「三木秀綱公奥方次女非運の跡」の石碑が左手に見えてきた。 戦国時代に追われて逃げてきた城主の奥方と次女が無頼の村人に襲われて悲劇の最後を、 ここで遂げたと記してある。 道ばたの石を眺めながら歩き始めた。水分をたっぷりと含んだ石が無造作に転がっている。 手にして眺めてみたら緑の紋様が見て取れた。観光地の土産店でよく見ることのできる瑪瑙のようだ。 加工研摩すれば立派な置石になりそうだ。沢に沿って更に登山道を分け入る。 沢の水が奔馬のように流れている。私達は新しい木製の橋に腰を下ろして休息を取った。

まるで回廊を思わせる渓谷模様。。 やがて沢を見下ろすように登山道が続き、 大きなトチの葉がバサバサと落ちている風景に出会うことになる。 10月、既に晩秋だ。彩り溢れる森の世界を黙々と歩いていった。 枯れて口をバック開けた栗の実、大きなトチの実が無造作に転がっていた。 猿の一群が私達の行方を声も立てずに見守っていた。少しばかり気味悪かった。 領域を荒らす仕種を見せれば彼等も黙ってはいないだろう。

岩壁がそそり立っていた。その脇につながる桟道を慎重に歩いていく。 激流を過ぎ、やがて緩やかな河原道になる。深い森のせいで日当たりが極めて悪いのだろう。 シダ類の植物が夥しく生育していた。ようやく岩魚留小屋に到着した。 午後2時の明るい日射しが古色蒼然とした家屋の屋根を照らしていた。 歴史を感じさせる家屋だ。旅に訪れた人達の会話が壊れかけ朽ちかけた扉の向こうから聞こえてきそうだ。
バーナー 私達はザックを下ろし好物のコーヒーを立てて飲むことにした。 友人が購入したばかりのガスバーナーを取り出した。 富士山に登った折に私が使っているのを見て求めたとのことだ。 コーヒーパックを撹拌すると、たちまちカップが茶褐色に変わって、おいしい香りが溢れてきた。
水を溜めているガラスの箱に魚が2匹泳いでいた。岩魚だ。 多くの岳人が、この小屋で休息を取り汗を拭って徳本峠を越えて行った。 その姿が彷佛としてくる佇まいだった。

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徳本峠への道を再び辿り始めた。
それまでのなだらかな勾配と違ってかなりの傾斜が続いていた。 高度差およそ600mだった。重いザックを担いだ身に、この高度差は堪えた。 七曲がりの登山道を息を切らしながら登って行った。力水を越えてからが更にしんどかった。 「北 杜夫」は書いている。島々宿から徳本峠まで一度も休みはしなかった。 何かに憑かれたように、ただひたすら私は歩いたと。季節は秋、紅葉の盛りを迎えていた。 一陣の風が吹き、紅葉した葉をあくまでも群青の空に舞いあげていった。 そういう景色を私はあれ以来見た事がないという主旨のことが書いてあった。 私もそういう景色に触れてみたいと願ったのだ。 一度どころか何度も、、もう数えきれない位の休息を取りながら私達は登って行った。 既にとっぷりと暮れかけていて、しかも小雨まで降ってきた。

そうして、ようやく徳本小屋に到着した。1800近かった。 岩魚小屋の周囲にテントが2張りほど並んでいた。小屋到着は4時から5時というのが常識になっていた。 当然のことのように小屋のおやじは言い放つ。 「こんな遅くに来て困ったもんだ。 食事の支度はとうに終わっていて、あんたたちの分はない。」 周囲には大勢の登山客がいた。いささかむっとしたが、返す言葉がなかった。 それにしても言い方というものがあるだろうに。 山小屋という隔絶した世界に住むおやじは口の利き方を知らない。まるでお山の大将である。 世間では通用しないゾと立腹したことだった。(ちなみにこの親爺は翌年、山を降りて 別の人が管理するようになった。行って帰ってくるほどの人物が小屋を管理するようになった。) 濡れたザックを小屋の外のテントに収納するようにとの指示があった。 濡れた衣服を着替え、持参のもので食事を終えた。

その頃になって、ようやく周囲のことが判ってきた。 二階建てになっていて、腰をかがめて寝床に出入りしなくてはならない。 壁の落書き、煙りが染み込み黒光りした天井の色等を眺めて、 いかにも山小屋という佇まいを感じたことだった。玄関の土間先に小さなコタツがあった。 足を入れさせて貰うが火の気はない。どうやら体温コタツであるらしかった。 そうこうする内に消灯の時刻を迎えた。腰をかがめてウナギの寝床に横移動。 カビ臭い布団にくるまった。一組にひとりの割り当ては助かった。 さんざん道草を食ったおかげで晩ご飯にはありつけなかったが、 島々からの登山道には十分満足した。 密やかな話声が聞こえてくる。時にはスーパーのゴミ袋の耳障りな音までも。

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10/11 上高地へ下山
朝を迎えた。周囲のざわめきで自然に目が覚めた。夕べの雨はすっかり上がっていた。 朝食の前に見なくてはならないものがある。穂高である。ここから眺める穂高は圧巻であるはずだ。 友人と連れ立って外に出る。10月のひんやりとした大気に包まれて身が締まった。 梢の向こうに目指す穂高が静かに朝日を浴びて輝いていた。

かって上高地から幾度となく眺めた穂高を、徳本峠2130mの高さから見ることができた。 巨大戦艦なみの大きさに映った。夢中で写真を撮ったことは言うまでもない。
できたら、あそこに登りたい。今回は無理としても、いつかはきっと登りたい。 双眼鏡 友人も同じ事を考えていたはずだ。「丁度、今頃の季節にテントを担いでさ、 涸沢から穂高に登りたいな!」 富士山以来、山に目覚めた中高年のささやかな願望と言えた。 ひとつの頂きを極めればまた次の頂きを目指す登山家の業と言えまいか。 富士山はまだしも、いきなり穂高というのが、そもそも無茶ではないかと思ったが、 互いに近郊ハイク登山で鍛えているはずだから、 後は体力勝負だろうと自己中心的甘読み判断が優先するのは仕方のないことだ。 これが間違いの元というのはよく判っているのだが、、笑。
朝食の時刻になった。昨夜自前の食糧で済ませたのでお腹が空いていたから一杯食べた。 山小屋の食糧調達も決して楽ではないだろう。値段の高さは許容の範囲だと思った。

小屋を背景にして幾葉かの写真を撮る。ベンチに陣取り、 おもむろにガスボンベを取り出して湯を湧かし始めた。シューシューとガスの燃える音が心地よい。 昨日辿ってきた島々に視線を落とし談笑。コーヒーと煙草を心ゆくまで楽しんだ。 とりあえず上高地へ下山し、そこから明神池まで、更に行けるところまで歩いて行こうということになった。 登山計画は秋風に舞う木の葉のように自由自在という訳だ。(笑)

下山開始一時間ほどで木梨平から続く道と交差する。ここから明神池までは逍遥の道だ。 清冽な梓川の流れを見ながらゆっくりと歩いて行った。見上げれば穂高の偉容が眼前に迫ってくる。 深まる秋の気配漂う道を満ち足りた気持ちで明神池まで散歩した。 過去、幾度となくこの道を歩いた私だった。親しい友と歩くことができた、ただそれだけで満足だった。 松本駅、別れ際に語った言葉 「来年はテントを買って一緒に穂高に登ろうか、、。」

Oは今、中央アルプスの山麓に移り住み、朝な夕なに宝剣岳を眺める暮らしをしている。 勤め先が倒産して、仕事を探しての移住とのこと。現地で結婚もした由だ。 どうやら奥さんも山登りをする人らしい。人生至る処に青山ありという、、、 (青山とは墓の意味を指す)元気に暮らしていてくれればいいのだが。

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 後記
結局、彼とは穂高に登る機会がなかった。 その翌年に再び挑戦し失敗、更に翌年挑戦してついに穂高山頂に立った。 小屋泊まりではなくテントを担いでというプロセスにこだわったからでした。
文責: 青島原人


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