山並  復活! 乾徳山  山並 山並 山並

ストック ストック お正月に丹沢に登って以来の登山でした。萎えた脚を引き摺っての青息吐息の登山でしたが、ひさしぶりの山行は身体の隅々に新鮮な酸素を送り込んでくれたようです。
それから立て続けに、廻り目平キャンプ場での金峰山山麓の徘徊、奥多摩、と山行を行うことができたのは、ひとえに、この乾徳山2031mの標高を登り終えた自信の賜物でした。


【日 付】 1999年5月1日(土)〜5月2日(日)晴れ
【場 所】 乾徳山


5/1(土) 杜撰な計画は身を滅ぼす
5月1日連休初日の朝6時、かねてから計画していた雲取山への登山を実現すべく、一泊小屋泊りの出で立ちで家を出る。ホームで電車を待っていたのだが、どうにも気分が乗らない。どうやら睡眠不足に原因があるらしい。準備もお座なりだった。地図も読んでいなかったし、兵糧の備えにも不安があった。やはり半年に及ぶ山との隔絶は隠せない。どうにもイメージが涌かないのだ。そういう私の気分を察してか、「貰ったばかりの女房」が助け舟を出す。
 「出直そうか、、、」
その言葉を、心のどこかで待っていた。
 「そうだね、、、」
すぐさま踵を返してホームを後にする。その足でデニーズに入り580円の朝食を食べることにした。朝食を食べながらも悔しくてどうにも治まらない。計画が脆くも頓挫したことへの悔恨。そういう杜撰な計画しか立てられなかった情けなさみたいなものが沸々込み上げてきて段々不機嫌になっていった。

店を出てからも、忸怩とした思いを抱いて、とぼとぼと帰る道のり。足に20キロの重い鉄鎖をつなげたような感覚だった。家に帰り付くなり、布団を敷き潜り込んだ。こうなりゃフテ寝しかあるめえよ、、、何と言う傲慢不遜な態度だろう。女房も傍らに布団を敷いて仲良く朝寝となる。夫唱婦随とは、、、まさかこういうことを言うのではないだろうが、、、、。疲弊した神経と睡眠不足の相乗効果もあいまってたちどころに深い眠りに入っていった。12時に覚醒する。冷静になって考えれば考える程、苦い悔恨が胸を突く。

このままではいけない、、。

磁石 テーブルにおもむろに奥秩父の地図を広げた。
復活の意志がメラメラと燃えあがる。雲取山は、アヤが付いたから験が悪い。また別の機会にしよう。足を伸ばして、前から計画にあがっていた「乾徳山」に登るという案はどうだろうということになった。その日の午後4時間かけて、地図を詳細に読み、道具をひとつひとつ点検する作業を丁寧に行った。この儀式を行うにつれ、次第に気力が充実してきた。やはり、こうでなくては面白くない。雲取山敗退の原因は、小屋泊りでピストンという安易な姿勢にあった。杜撰な計画は身を滅ぼすの例えを身をもって味わった。向後の戒めとしたい。

再度、自宅を出発する
同5月1日、21時に家を出る。GW初日とあって街行く車の往来も、心なしか多く感じた。中央高速に乗り勝沼インターまで。既に0時を廻っていた。体力温存の為に、ちゃんとした宿泊施設で(テントじゃないという意味です)仮眠を取ろうということになり、知らない異国の街で、それらしきネオンを捜して徘徊すること、一時間余り。ようやく捜し求めた、それらしき施設は泊り料金9000円という法外な値段だった。

午前1時入室。四方鏡張り、浴室丸見えの豪華絢爛たる部屋模様。すぐさまシャワーを浴び、サービスとある冷蔵庫のビールを飲み干し、ただちに「マアルイ布団」」に潜り込み、目覚ましは07:00にセット。隣室の気配が壁を通して幽かに聞こえてくる。そういうこともあるだろう、そういうことにも驚かない人生経験を重ねてきたのだ、、、ははは。

 ◆  ◆  ◆

5/2(日) 乾徳山登山口を目指す
07:00、けたたましい電話のベルで目がさめる。即座に飛び起きて珈琲を飲もうとしたが、電熱式の湯沸かし器が故障している様子。法外な値段の割には施設がお粗末ではないか、、、、それなら灰皿のひとつもちょろまかしても罰はあたるまいと即座に判断し、お土産に持参してきたことだった。私は罪深い男だろうか。

昨日の内に仕入れておいたパンと牛乳をほうばりながら一路、乾徳山登山口を目指した。春の新緑が眩しい輝きを放っていた。聳え並ぶ秩父の山々の偉容に歓声をあげた。戦国時代、武田信玄が南征を目指した理由が少しは理解できる。山に囲まれたこの国で、安定した治世を果たすには、領土の拡大が必須だった。北に毘沙門天の化身、謙信を迎え撃ち、信濃諏訪の国を犯さざるを得なかったこともやむを得ないことだった。

いよいよ歩き始める
7時40分、登山口に到着する。ただちに衣服を整え、靴の紐を絞めた。地図を広げて行程を確認する。しばらくは家並を見ながらの車道歩きが続いた。道満尾根経由も捨てがたい魅力があったのだが、体力的な自信の回復の為に、より安全で簡易な道を選んだ。年寄りの老獪な判断というべきではないだろうか。神社があり、車が5台ほど停車していた。葉桜をバックに写真を一枚。中古で仕入れたオートフォーカス機の威力に舌を巻く。曲折する車道をゆっくり歩いてゆく。ようやく登山道入り口に至る。急登が始まった。

木 木 衰えた足を一段一段引きずりながら標高を稼いでいく。銀晶水の水場でも休まずに歩を刻んだ。まだまだ休んではいけない、死ぬ死ぬといいながら登るのがいいのだと、どこかのおっさんが言っていた。ある意味で自虐的な快感ではあるなあ。臨界点すれすれまで辛抱辛抱。自らを老いた駄馬にたとえ、鞭をくれ、叱咤しながら標高を刻んでいった。ザックの重さは、水を入れても7キロに押さえてきたのだが、いかんせん靴が重い。布製の靴なら軽いのだろうが。

錦晶水で、ようやく一本立てた。どっと吹き出す汗。手で水を掬って飲みたいだけ飲む。冷たくて柔らかくてうまい。身体の隅々に生命が蘇る。ああ、、山はいいなあとひとりごちる。しばらく歩くと国師ケ原。目指すべき乾徳山の稜線が左に見えてきた。尾根ゆく多くの登山者の姿を見ながら、下がった血糖値の補充を行う。おこわのおにぎりとトマト。塩をかけてかぶりつく食べ方が一番うまい。あわよくば女房の分もいただこうと思ったが、既にかぶりついていて後の祭り。もう一個持参すれば良かった。どうも食い意地が汚い。老人症候群というべきか。

「おいおい足にきてるよ、、」
30分ほど休んで再び歩き始めた。が、、なんとした事、足が震えてよろけてしまうではないか。ヨロヨロと左右に振れてしまう。とても歩ける状態ではない。
 「おいおい足にきてるよ、、」
心配そうに私をみやる御新造さん。私より10も年下なのだが、容色の衰え激しいと最近嘆くことが多い。生活が苦しいのだろう。私の稼ぎが少ないのだ。いつか逃げるかもしれんなあ、、。
 「もはやここまでか、、」
そう思いながら10、20m歩いたら調子が戻ってきた。ここからが勝負やで、、、と自分を叱咤して更に高度をあげていく。道満尾根からの道と合流する。立ったまま一本立てて息を整え、タバコを一本。もう大丈夫だ、やれるという自信が蘇ってきた。ここらか頂上までは、およそ1時間の行程だ。

最後の大岩を登る
岩場の連続となった。鎖場、梯子をクリアし、最後のスラブ状の大きな岩場に行き当たる。大勢の順番待ち。腰が引けて鎖にふられて悲鳴をあげる人。自信がないから巻道経由で頂上を目指す人、さまざまだった。

ロープ 自分たちの番がきた。まず女房を先に登らせた。左の岩場をトレースしながら登れ、中腹までは腕のパワーで行け、そこから横にトレースすれば、楽だと指示を与える。女房は、その通りに実行しやすやすと登り切った。次は私の番、言うは安く行いは難しの例え。鎖に振られながら、かなりみっともない登り方をした。ようやく頂上に到着。人が溢れていた。春霞の為、視界はあいにくだったものの、間違いなく頂上だった。

山頂でのおじいちゃんと孫
だれかが金峰山が見えると叫んでいる。狭い山頂に人が溢れていて移動がままならない。腰を降ろしてザックを開ける。左の視界に黒森山。ほぼ正面に甲武信ケ岳が見える。その右手には雁坂嶺、大菩薩嶺とつづく奥秩父の山々が連なっている。つくづくと奥秩父は大きいと感じた。
6月の季節になったら、甲武信ケ岳に登ろう。そういえばニュースで甲武信ケ岳で4人のパーティの遭難を告げていたなあ。山頂で決まりの写真を取り、珈琲とタバコを飲み和んで時間を過ごす。

飯盒 鍋 飯盒

目の前のおじいちゃんと孫(小4位だろう)との会話が、なんとも微笑ましかった。地図を広げ、磁石で北を指し示しながら(孫にその使い方を教えているのだろう)
 じい「若いときに、あの右のずっと向こうから5日間もかけてな、あの甲武信ケ岳まで登ったことがあるんだよ。」
 孫 「ふーん、御飯はどうしたの」
 じい「御飯は、その場で炊いて食べた、、」
昔とった杵柄の自慢を、孫にする姿。一緒に山に来てくれる孫が可愛くてしかたがない風情だった。その爺さんの優しい眼差しに、じーんと打たれるものがあった。

下山の後はお決まりの温泉で
下山にかかる。頂上を巻いての近道を経由。面白いほど楽に下山できたものの、既に完全に膝にきていた。明日の朝は、足が痛いだろうなあ。白樺の林の影に高原ヒュッテが見える。雨風を凌ぐことができるだけでもありがたい建物と映った。付近にテントに並んでいた。巨大なテントがあったが、あれは山岳部御用達だろう。ほぼコースタイム通りに下山できたことが収穫。後は町営「牧の湯」で風呂を浴び、焼肉だ。

帰宅は深夜遅く。
翌日からの脚の痛みの、凄かったの凄くなかったのって、、、はははは。

文責: 青島原人


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