人はなぜ追憶を語るのだろうか

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Photograph by Takashi Yamamoto

北杜夫は著書「幽霊」において次のように綴っている。

『人はなぜ追憶を語るのだろうか。どの民族にも神話があるように、どの個人にも 心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。だが、あのおぼろげな昔に人の心にしのびこみ、すっと爪 跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。そうした所作は死ぬまで続いてゆくことだろう。それにして も、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。』

昭和38年夏、12歳の私は母に手を引かれ黒い煙を吐く蒸気機関車に乗り宮崎を後にした。出発した時刻が昼であったか夜であったか覚えていない。多分、夜行列車ではなかったか。単線の日豊本線を北上し、夜を継いで走り、下関、中国地方を経て大阪駅で乗り換えたことを覚えている。一昼夜をかけて北陸のJR動橋駅に降り立った。バスに揺られ小さな温泉町に着いた。関西の奥座敷と呼ばれた温泉町は活気があり繁盛しているようだった。ここでも当面の間、住み込みで働いていた母と別々に暮らすこととなった。母は、きっと辛かっただろう。町に着いたその足で、町外れの暗い電灯の灯る坂道を辿り一軒の家に連れて行かれた。家の人から「ボク、今日からうちの家族になるんや」と優しい言葉を貰った。その日から私の新しい生活が始まった。家族四人の他に、同じように預けられた同年代の姉弟二人がいた。当時、温泉町には子供を預けて働く婦人が大勢いたようだ。町外れに同じ事情を持つ児童を収容する孤児院施設があった。辛い暮らしの孤児院ではなく普通の家と考えた母の精一杯の思いが偲ばれる。年数は覚えていないけれど一年ほどは過ごしたようだ。そのことを綴るのはまだまだ先のことになる。

宮崎での暮らしを諦め北陸の温泉町に生活基盤を求めた母は、様子を確かめるべく私を知人に一年の約束で託し単身赴いた。一年後、暮らしの基盤を整えた母は約束通り私を迎えに来たのだった。昭和26年、私を産み落とした前後のこと、それからの激動の日々のこと。窺い知れない不安な思いが母にあっただろうと推察するばかりだ。児童相談所、親戚知人の家で過ごした12歳までの記憶が微かな痛みと共に蘇る。今のように恵まれた時代ではなく母子共に暮らす環境が難しい時代だった。私にとって「他人の飯」がどのようなものであったか、一言で綴ることはとうていできない。いつもひとりぽっちの点景があったと改めて思う。小学校は三回転校した。不安で心もとない日々は少年の心にどのような陰翳を刻んだのだろうか。幾星霜を重ねても12歳の夏まで過ごした宮崎時代のことは忘れがたい。


[2010年 10月 29日]


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