ふるさとのこと

数年前、従兄弟と霧島連山を縦走する為に宮崎を訪れた。もはや夜行列車の時代ではなかった。羽田空港からわずか一時間半で着く。空港から宮崎にローカル電車が走っていた。駅正面に立って街を眺め、駅ロッカーに登山靴とザックを預けサンダルに履き替えた。東口から徒歩数分にある青葉町を数十年ぶりに歩いた。それまでにも叔父叔母の葬儀参列のために幾度か帰省していたが、いずれも短い日数で果たせなかった。1997年夏、木蓮と旅した九州巡りは別として、霧島連山へ登るためだけの贅沢な帰省は初めてのことだった。

見渡す建物、町の佇まいが一変していた。自転車を漕いで走った石ころだらけの坂道、車が往来するたびに濛々と砂塵舞った路はアスファルトが敷かれていた。いつも通過待ちで待たされた踏切は架橋されていた。昔の面影はどこにもなかった。変わらずに姿のままにあったものもある。母の父母、代々の先祖が眠る下原墓地がそれだった。商業開発の手も市営墓地には及ばない。その影響だろうか墓地に隣接して建てられた古い木造家屋が往時のままにあった。狭い隘路の一番奥の古い平屋家屋に母と私は暮らしていた。建て替えられ新しくなってはいたけれど、屋根の高さも、隣家との境に築かれたゴツゴツした石壁文様も往時のままにあった。石壁縁には泥棒避けのガラス破片が埋め込まれていた。それと知らず壁を乗り越えようとして深く指を切った覚えがある。壁の向こうは墓石屋だった。石を削る研磨機モーター音と白い粉塵の匂いが想い出された。真新しい警備会社ビルに替わっていた。隣の家は平屋木造のままあった。風雪を重ねたトタン屋根の傾斜と鈍い光の黒瓦にかすかな記憶があった。アパートの階段に腰を下し煙草を燻らせた。露地入り口付近に水浴びをして遊んだ井戸があったが無くなっていた。白い犬がつながれていた記憶が蘇った。建物と石壁が昔の名残りのままに在ったことが嬉しかった。ここにだけ昭和の匂いが残ってるようだった。家主の名前をアパートの住人に尋ね、さっそく携帯をつないだ。「以前住んでいた者ですが」と自己紹介したところ、とても懐かしがってくれた。生憎、家内は先年他界しましたとのこと。丁寧にお礼を述べて電話を切った。

石炭の山も、材木置き場も、澱粉工場も屠殺場も、悪さをした日に家を閉め出される度に避難し朝を迎えたトラック置き場も、凍てつく冬、夜空に瞬くオリオン星座を見上げながら通った銭湯も姿を消していた。金だらい一杯のおたまじゃくしを取って遊んだ田んぼも、くず鉄を拾った工場も、匂い漂ったメッキ工場も、その裏手に流れる小さなどぶ川も、斜め前にあった新聞屋(そこの子供と遊んだものだ)もなかった。いつのまにか町も様変わりし人も世代交代を遂げていた。かって住んだ町ではあるけれど、もはやそこの住人ではなかった。見知らぬ町を訪ね歩くひとりの旅人としてあった。懐かしさがこびりついた町を単なる外来者として蹌踉と歩いているに過ぎなかった。入り交じる想い出が溢れさまざまに交錯した。市営墓地と住まいの石壁だけが昔のままにあった。その墓地といえども幾星霜を経て墓石の大方は苔むし色褪せていたのだけれど。幾葉かの写真をカメラに収め、懐かしい神宮へ足を向けた。それ以降のことは別編(Hill Walk)で綴ることになる。Continue、、、。


宮崎市街

[2010年 10月 29日]


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