大阪駅途中下車

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Photograph by Takashi Yamamoto

中国地方で朝を迎えたことを覚えている。進行方向の左側になだらかな山があり右側に光る海が視えた。車窓から視る景色の中にひときわ大きな山が在った。山の名前のことなど勿論知る由もない。旅の点景としていつも記憶にあった。中国山脈であることは後年知った。「鷲羽山」ではないかと調べたけれどそうではないらしい。北陸線乗換の為に大阪駅で途中下車した。その頃、わたしは臍下にできた吹き出物が膿を持って大きく腫れていた。その手当を構内の石柱の陰で行った。母は、名薬「タコの吸い出し」を塗布しガーゼ交換の為に、こともあろうにパンツを思い切りずり下げた。公衆の面前で、まさにチン列寸止めである。さすがに気恥ずかしかった。後年、大阪駅を訪れる機会が幾度もあったが、私にとっての大阪駅はほろ苦い「悲惨な思い出」と共にある。当時の大阪駅の佇まいがどうであったかはおぼろだが、陽射し降り注ぐ街の色、灰色コンクリートの大きな石柱、せわしなく行き過ぎる人の往来があったことを微かに覚えている。1970年、大阪万博が開催された年に友達と大阪を訪れた。大阪駅に降り立った時も、ついつい大きな石柱の在処を探してしまった。一ヶ月にわたる会社研修が生駒寮で行われたとき大阪駅周辺を軸に、北の新地、宗右衛門町、道頓堀界隈をあちこち徘徊した。大きな石柱など、考えてみればどこにでもあるのだが、その時の恨みが骨身に沁みていたのだろうか。それもこれも無意識のうちに宮崎に繋がる記憶を確かめる所作だったのだろう。

「点の記」を綴るにあたって、どうしても昭和38年当時の出発時刻のことが気にかかりネット探索を行った。世には時刻表、鉄道マニアがいらっしゃることが判明した。国鉄時代の時刻表を収集網羅してあり、該博な智識と蘊蓄と情報をお持ちのようだった。本当に好きでなければできない、メンタルな領域の豊さと暮らしの余裕がなくては到底できないことだ。失礼とは思ったが意を決してメールを差し上げた。「到着時刻が夕方として、逆算した場合の出発時刻はいつかをお調べいただけないでしょうか」と厚かましいお願いをしたのだった。ただちに返信が届いた。「現在出張中ですので後日調べます。しばらくお待ちください」とあった。ありがたいことだと感謝した。昨日、その結果が届いた。その結果、宮崎を出発した時刻と列車の情報が判明した。データは以下の通り。(昭和38年夏の時刻表からお調べいただいた内容を転記 「ねもねもの鉄道趣味の部屋」



明け方に中国山脈を俯瞰した時刻から考えると、どうやら「2」「3」の確率が高いようだ。 いずれにしても、ほぼ24時間を費やして移動したことになる。 そういう時代だったのだと改めて旅の長さを実感した。 ちなみに今の時刻表だとどうなるかを調べた。(飛行機を使わない条件下で)

4:10時間24分 乗車時間9時間6分 乗換三回 総額費用23010円 距離1158.8Km。

昭和38年盛夏のある日、黒い煙を吐く逞しい蒸気機関車は母子の獏とした不安と期待を乗せ、警笛一声の音響を上げながら大阪を目指し驀進を始めた。それは全長1200キロに及ぶ、ふるさと宮崎から遠ざかる往きて還らぬ旅路であった。


[2010年 11月 01日]


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