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東北の山旅 2004.08.07-14

東北の山旅 一日目

ながらく心に懸かっていた東北山旅の記録にようやく着手する。全日本地図、登山地図を参照し全ルートを遡った。今回改めて旅ノートとして選んだ 「moleskine」に詳細な記録を取り再現・再稿することにした。「旅の記録を書き上げない間はまだ旅の途上にあるのだと。実に6年に及ぶ旅をしてい る。ゆっくりコツコツと仕上げて行こう。

2004.08.07(土)快晴
コース
浦和IC〜東北自動車道
18:00首都高速浦和ICより東北自動車道〜00:00北上PA(仮眠)

実に十数年ぶりに東北を目指す旅に出た。一度目は昭和54年、二度目は元年頃ではなかったか。今となっては曖昧な記憶の彼方のことになった。当時想いもしなかった「登山」を目的とした旅の形となった。早池峰山を皮切りに、岩手山、八幡平、鳥海山、月山を巡る全行程七泊八日の山旅。登山を始めたこと仕事を辞めたこと就職したこと浅田次郎「壬生義士伝」に触発されたこと、その他、人を巡るさまざまな東北に絡む縁(えにし)があったことに拠る。

浦和ICに1800に入った。盛岡まで450キロとの指標が視野に入った。迷うことない一本道、東北自動車道ひたすら北上した。盛岡まで平均時速100kmでVolks WargenVを疾駆させること凡そ六時間、一度の休憩で走り通した。0000頃に北上PAに到着した。ここまで走ればもう大丈夫。張りつめていた緊張が一気に緩み、 たちまち寝入った。

(その当時の記憶の点景、思いだすままに。)

岩手山を一望する盛岡市郊外に石川啄木生誕の地、渋民村がある。その傍を流れる北上川の辺に建つ啄木歌碑には「やわらかに柳青める北上の岸辺に見ゆ泣けとご とくに」と刻まれてある。流浪の旅人となり異郷の北海道で暮らした失意の啄木がふるさと盛岡を偲んで詠んだものだ。追われるように去った故郷の望郷の想いが偲ばれる歌だった。「匂いやさしい北上の」と歌われる北上川が傍らに流れている。その名前こそは昔から知っていた私。啄木新居の佇まいが在った。代用教員をした木造校舎の黴臭い小さな机と椅子、色褪せ干からびた黒板が当時のままに残されていた。啄木はここで時代を見つめ湧出する憧れを、溢れる才気で綴ったが父の所行の結果起きた出来事がきっかけとなり失意の内に故郷を去ることになった。「石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし」と詠んだ啄木流離の旅が始まった。
啄木記念館を訪れたことが縁となり筑摩書房刊「石川啄木全集」の幾冊が書棚に並んだ。若い日、憑かれたように自分の人生を重ねながら啄木日記を読んだ季節を持つ。啄木と同じように故郷を離れた身であった。望郷の想い、流浪の旅路という哀しい言葉が私の小さな胸を揺らしたのだろう。その本も暮らしの変遷の中で今は手元にない。

夜、秋田に向かう道すがら田園広がる雫石から眺めた天上のこと、空を埋め尽くすように輝いていた星々のことを今も鮮やかに覚えている。漆黒の闇を背景に宝石のように星が溢れ溢れていた。当時の雫石付近の灯りは今ほどにさんざめくものでは なかった。ましてや岩手山麓の広がり、小岩井牧場の広がりなど知るよしもなかった。人生の機微も形も季節の移ろいも人の世の哀しみも、なにもかもが見えていない未熟な時代だった。その路「秋田街道」は賢治が学生時代に親友たちと明け方まで議論し歩いた路であったことを後に知った。今回の旅は、私にとって、ある意味、埋もれた記憶を掘り起こし回顧する楽しくも辛い憂愁の旅であった。

旅の二日目に立ち寄った「宮沢賢治記念館」。以後、二年を費やして「宮沢賢治」に没頭した。賢治世界の豊穣と哀しみ。「銀河鉄道の夜」作品の由来を深く知ることができた。やがてトルストイを読み始め、ロシア文学ドストエフスキーに親しむ萌芽となった。いずれの東北の旅も「啄木と賢治」共に明治を生きた二人を知る節目となった。忘れてはいけない、もう一人居る。幾度か訪れた津軽半島の旅では「太宰治」と出逢った。今は斜陽記念館となっているが当時は旅館を営んでいた。一泊し太宰を偲んだことだった。太宰にかぶれ、遂に全集を揃えるに至った。後年読むことになる宮本輝「錦繍」の冒頭が「蔵王」であることに深い機縁を感じた。その地に友人Sと足を運んだことがある。どうやら東北を巡る縁が私の身に纏わりついていたらしい。幾度かの東北旅の道連れにS氏の姿があった。津軽海峡竜飛岬の防波堤で釣りをしたこと、「斜陽館」での眠れぬ一夜のこと。ねぶた祭りの熱狂の響き。山形県上山温泉では斉藤茂吉記念館を訪ねた。北杜夫の詩情と笑いとペーソスにかぶれた学生時代の余韻だった。天童のこけし、蔵王山頂で食べた丸いコンニャクの事なども、ついつい想い出してしまう。暮らしの中で、ふとした拍子に「小さな旅」の記憶が陽炎のようにユラリ立ち昇ることがある。今でも「名物山形こんにゃく」を買って賞味してしまうのも、その名残りなのだろう。

あれから30数年の星霜を経て三度目の北上となった。時代は変わり当時の人々との思い出深い交流も今はすっかり絶えてしまった。変化することが人の世の常とすれば何も嘆くことはなにもないのだと今は判る。いつに変わらぬ自然の営みがある。悠久に流れる時の狭間で人の肖像、暮らしの形だけが移ろっていく。人それぞれの喜怒哀楽の物語を織りながら時だけが非情に流れていく。

浦和ICに 18:00に入った。盛岡まで450キロとの指標が視野に入った。概ね120キロでVolks WargenVを疾駆させること凡そ六時間、一度の休憩のみ。00:00頃に北上PAに到着した。ここまで走ればもう大丈夫。張りつめていた緊張が一気に緩み、 たちまち寝入った。



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